mitsuhiro yamagiwa

2022-11-06

集団的=間個体的

テーマ:notebook

第四章 組織化する無機的なもの

 環境はわれわれの日常生活に能動的に関与してくる。

 シモンドンが正しく観察するように、環境技術は文化技術の一般的な作動である。

 「いわば、文化は環境を管理することで第二の自然を発生させるが、畜産農業は一切の自然から乖離しており、逸脱した種の過剰な進行の行き詰まりへと自然を迂回させる」。

 二〇世紀の有機体論と器官学は、この第二の自然を身体と文化の有機性の内に取り込む努力と見なせる部分がある。奇妙なことに、これにはロマン主義を産業主義と結婚させることで国家主義イデオロギーの構築を試みたドイツの国家社会主義も含まれる。

 シモンドンの個体化の理論においては自然が依然として重要な要素の一つであるのに対し、スティグレールにおいては自然という言葉があまりに多くの意味を背負い過ぎたものとされていることによる。自然という言葉を放棄することで、スティグレールは純粋な第一の自然を捨て第二の自然を取る。それは技術化された自然、何ものもそこでは自然ではない自然である。

第32節 普遍サイバネティクス、一般アラグマティクス

 偶然の出来事がシステムに情報を持ち込み、システム内の特定の要素または一つの全体としてのシステムに何らかの意味作用を生み出し、これが転じて新たな個体化の過程の引き金をひく。

 器官とはみずからを条件づけることができるものである。諸器官の発生には収斂しようとする努力が働いており、これは一つの器官をそれ以外の諸器官および一つの全体としての身体にシステムとして結束させる。

 器官がみずからの条件になるとは、どういう意味か。それは或る一つのシステムの内に状況づけられて、他の諸部分と互酬的な関係にあるという意味である。つまりみずからをシステムに適応させながら、同時にシステムを変様させ、転じてこれがまたみずからのさらなる作動様態を条件づける。それは有機的なシステム全体のフィードバックを通じて、みずからの条件となるのである。

 新たな価値の創発は、何らかの問題ある実存に依存している。

 価値的な機能は外的でありながら内的でもあり、ギリシアのポリスにおける市民と市民体制のように、一つの全体論的な構造と作動をなしているのである。

第33節 心理的かつ集団的な個体化における再帰性

 個体化は再帰的な過程であり、その動態は(諸部分の間では)互酬的でありながら(一つの全体としては)全体論的である。

 『個体化』はサイバネティクスが示唆する新たな認識論に即して存在と生成の問いを再考する一つの試みである。

 第一に、テクノロジーはアプリオリなものになるアポステリオリなものである。たとえば記憶は経験的であるからアポステリオリであるが、ひとたび記録されるとそれは新たな経験の条件になるからアプリオリである。

 第二に、個体的なものと集団的なものとの間には一つの有機的な全体があり、これは水と魚のように分けるわけにはいかない。この有機的な部分-全体の関係こそが、かかる個体化の理論の条件なのである。

 シモンドンにいわせれば、個体的なものと社会的なものは、実体的は実在ではなく、むしろ関係の集合なのである。

 シモンドンの見解では、個体化は同時に心理的かつ集団的である。つまり心理的なものは集団的なものから分離することができない。心理的なものはつねにすでに超個体的なのである。

 シモンドンによると心理的な問題は「個体以下の水準」では解決しえないが、それは「心理的な生命が前個体的なものから集団的なものにまでおよぶ」からである。

 孤独とは世界との一切の関係を断絶することではない。逆で、それはつねに外部を探し求めているという意味で超個体的なのであり、そうでないなら隔離でしかない。「真の個体は孤独を通り抜けている。それが孤独を超えて発見するのは或る超個体的な関係の現前である。個体的なものは関係の普遍性を見いだすために経なければならない試練を課されている。孤独という試練である」。

 すなわち、外的なものの内化と、内的なものの外化である。つまり、記憶がそうであるように、アポステリオリなものがアプリオリになるということであるーーこのアプリオリは、超越論的であるという厳密な意味ではなく、選択の条件ないし規順になるという意味である。

 心理的かつ集団的な個体化はかかる再帰性を通じて達成されるのであり、集団的なものが心理的なものから分離できないというのは(そしてその逆も)この意味で理解しなければならない。

 前個体的なものは消尽することなく、個体化の背景としてつねに残存する。

 シモンドンのいう個体化はつねに前個体的なものを前提としている。つまり潜勢力として個体の内に与えられた搬び込まれた何らかの実在を前提しているのである。個体化がこの前個体的な実在を消尽することはありえない。むしろそれは個体化した存在の内に保護され、次なる個体化の過程にとって第一の条件になる。

 前個体的なものは原因ではなく、むしろ原因から結果への道筋が現働化するための潜勢力ないし資源である。

 前個体的なものは統一性以上のものであるとともに同一性以上のものでもある。別の言い方をすれば、それは隠れた過剰なのである。

 イオニアの自然学者たちは、個体化に先立つ、存在者のすべての種の起源を見いだしていた。自然は可能的なものの実在なのであり、アナクシマンドロスがそこからあらゆる個体化された形式を産出してきたところのかかる無限者の諸種の下にある。自然は人間の反対ではなく、存在の第一の位相であり、第二は個体と環境の対立で、これはすべてのものとの関係における個体的なものを賞賛している。

 前個体的なものは形式を与える地に属する。エネルギーの役割を演じるのは形式ではなく、むしろ形式をもたらす地である。

 準安定性という概念は、アシュビーの恒常性に見られるような平衡の概念に対抗するものである。というのも恒常性は平衡に向かうべく規定されているが、シモンドンにいわせれば平衡とは個体化の行き詰まりにほかならないからである。つまり死である。*不一致ーー両立不可能性ないし非対称性ーーこそが個体化の原動機であり、これは問題の存在者を活動させることで発生した緊張を解決させる。活動するということは上昇し準安定化するということを意味する。

 「個体化の知識は知識の個体化である」シモンドン『個体化』

 情報はエネルギーと物質の過程における過剰なものである。「過剰」とはすなわち、エネルギーにも物質にも還元できないが、その過程に偏在しているということである。情報とはみずからの内に何らかの意味作用をもたらす不一致であり、意味作用とはシステムに無視しえない意味をもたらすということである。情報は個体化の諸条件の一つでしかなく、他にも物質的な諸条件やエネルギー的な諸条件が見いだされる。

 情報は物質にもエネルギーにも還元できない。意味作用であるからには情報はノイズとは異なる。情報はまさしく意味をもたらすものであるが、ノイズは必ずしも意味をもたらさない。

 ベイトソンが定義したように、情報とは「差異をつくる差異」なのである。

 一冊の本は多数の読者が共有でき、一つの集団を形成することができる。

 技術対象の媒介により人間関係が創造される。これこそが超個体性のモデルである。

 [関係が]成立するには、集団的な間個体的な実在を実存させることが条件となる。われわれはこれを超個体的と呼ぶが、それはこれが多数の主体それぞれの創意に満ちた組織化の能力どうしの間に一つのカップリングを創造するからである。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。