mitsuhiro yamagiwa

2021-04-15

見とめること?

テーマ:notebook

Adaptation

 生物が食物をとるのも、敵を避けるのも、配偶を求めるのも、みな生きるための必然性がしからしめるところであろうが、食物も敵も配偶もみなこれ一種の環境である。だからこのようなものを認めるということは環境全体の中からとくにこのようなものを生物が選んだのである。すなわち認めることは選ぶことである。口の中へはいってから食物となり、食われてから敵となり、交尾してから配偶となるのではない。環境は生物のほうから働きかけてこそ生物を生かすものとなるが、生物がもし働きかけなかったならばおそらく環境は生物を殺し、これを単なる物質に変えてしまうであろう。生物が環境を認めることは環境に対する働きかけであり、それはすなわち環境の生物による選択である。

 進化は必然の自由によってもたらされたものではなくて、偶然の不自由に由来するものである。

 生物が生きるということは身体を通した環境の主体化であり、それは逆に身体を通した主体の環境化であるといったが、このように自由にして自由ならざるものが身体であり、この自由と必然との相克を通し新たなる身体が創造せられる。それを変異とは解されないだろうか。身体を受け継ぎ身体を伝えて行く生物の進化は、かくのごとくして一応は身体の創造であるともいえるであろう。

 変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。

 生物の生活がこのように方向づけられているからこそ、環境化された主体はいよいよその環境を主体化せんとして、いよいよ環境化されて行く。適応の原理はここにあるであろう。

『生物の世界』今西錦司/著より抜粋し引用