mitsuhiro yamagiwa

補填


 
 普段、存在は隠れている。存在は現に、われわれの周囲に、またわれわれの内部にある。それはわれわれである。存在について語らなければ何一つ言うことができないわけだが、結局のところ、存在にふれることはできないのである。私が存在について思考したと信じたとき、実は私は何も思考しておらず、頭は空っぽであるが、もしくはたった一つの語、つまり「ある」という語だけが頭に浮かんでいたと信じるべきである。

 けれども事物を眺めているときでさえ、それが存在しているということを考えてみるなど思いもよらなかった。事物は装置のように見えた。事物を手に取ると、それは道具として役立った。私は事物の抵抗を予見していた。だがこうしたことはすべて上辺だけの出来事だった。もし存在とは何であるかと問われたならば、私はきっぱりと、それは何ものでもない、まさしくそれは外部からやって来て、その性質を何一つ変化させることなく事物に付加される空虚な形式であると答えただだろう。

 事物の多様性、事物の個体性は単なる仮象、単なる仮漆に過ぎなかった。その仮漆が溶けた。
そして怪物じみた柔い無秩序な塊がーー怖ろしい淫猥な裸形の塊が残った。

 私たちは、自分自身に迷惑し困っている存在者の堆積であった。私たちは誰一人、いささかも、現にあるということの理由をもたなかった。

 しかじかの存在者は、混乱し、何となく不安でたがいに他のものに対して余計であると感じていた。

 (人間世界の流れを遅らせようとして、寸法、分量、方向を保存しようと私が執拗に試みた)これらの関係は、恣意的なものであるように感じられた。もはやこれらの関係は事物に食い込まなかった。

 私は永久に余計だった。

 人間たちによる彩色された小さな世界のうちでの或る身振り、或る出来事、それは結局、相対的にしか不条理ではない。
すなわち、その身振りや出来事に伴う状況との関係においてしか不条理的ではない。

 説明とか理屈の世界は存在の世界ではない。円は不条理ではなく、きちんと説明される[…]。
何しろ、円は存在しないのだから。
それとは反対に、この根は、私がそれを説明できないかぎりにおいて、存在していた。

 肝要なもの、それは偶然性である。

 偶然性とは、消去されうる見せかけや仮象ではない。それは絶対的なものであり、それゆえに完全な無償性なのである。
この公園も、この街も、そして私自身も。

もしこのことを理解するに至るならば、それは人々の考えを変え、すべてが浮動しはじめる。[…]それが吐き気なのだ。

『マルティン・ハイデガーの哲学』補填『嘔吐 – サルトル全集6』白井浩司/訳より抜粋し引用