mitsuhiro yamagiwa

アニミズム

 まなざしを返すことによって、私たちはジャガーに私たちを自己として扱う可能性を与えようとしている。もし、反対に私たちがそっぽを向けば、ジャガーは私たちをモノとして扱うであろうし、そうして実際には私たちはモノ、文字通りの死肉、アイチャになってしまうかもしれない。

 言語学者エミール・バンヴェニストは、〈私〉、〈あなた〉という代名詞は対話者が互いに呼びあうことを通して間主観的に彼らを位置づけると述べている。

 対照的に、第三人称はより正確には「非=人称」的なものである。

 ジャガーと人間は、見つめ返しあうという行為において、ある意味、互いに「人格」となる。

 私の考えでは、アニミズムは世界の特性に関して、さらに遠くにあるものをつかんでいる。

 ルナのアニミズムは、ひとつの存在論的な事実に根ざしている。すなわち、他なるたぐいの思考する自己が人間的なるもののかなたに存在する、という事実である。

 「森はいかに考えるか(How Forests Think)」。もし私たちが、自らの思考を、ほかの人々がいかに考えるのかを通して考えることに制限するのであれば、私たちは常に存在論を認識論で囲い込むことになってしまうだろう。

 動物は人格であり、世界には分割可能な機械に似たところがある(これが、還元主義的科学がここまで成功を収めた所以である)。

 そこで必要になるのが、私たちが他なる諸自己と共有する予期せぬ親和性に調和しながらも、同時に、森に住まう数多のたぐいの諸自己を区別する差異を認識することである。

パースペクティヴ主義

つまり、全てのたぐいの自己は、〈私〉である。しかしそれは、異なるたぐいの諸存在を特徴づける固有な性質を説明する道筋をも与えてくれる。それは二つの絡みあった前提を伴っている。

 あらゆる存在は自らのことを人格として見ているのではあるが、ほかの存在が自らを認識する仕方は、観察する存在と観察される存在のたぐいに依る。

 アヴィラの日常生活には、物事を観点的にとらえる傾向が浸透している。

 この志向は、私たちとのあいだの連続性を認識しながら同時に差異も認める仕方で、記号論的な諸自己を理解する必要性がもたらした、生態学的に偶然の増幅作用でもある。

 アヴィラの人々は、森に住まうこうした多様な自己の見方を理解しようとすること、そして、異なったパースペクティヴがいかに相互作用するかを想像することで、これら諸自己のことを理解しようとする。

 要するに、森の生命形態は観点を持つ自己である。この事実がそれらを活性化し、その与えられた活性が世界を魅力するもので満たすのである。

思考の情態

 ベイトソンは両眼の視覚の例をとって、二重記述とは何かを記述している。脳は、それぞれの目が見るもののあいだにある類似性を認識し、また、その違いを体系的に比較し、「二重記述」を実行することで、そうした個々人の入力をより高い論理階層におけるより包括的なものの一部として解釈するようになる。そのとき、新奇な何かーー奥行きの感覚ーーが立ち現れる。

 脳が視覚的な像というズレをはらんだ複製を比較することで、奥行きが生まれるように、ある特定のニッチに適合した(例えば、海底で横歩きできるようにするような)総体的な形態をもつ有機体としてのカニは、しだいにズレをはらんでいく足の解釈を身体化したものとして現れる。

生ある思考

 自己は記号であり、生命は思考であり、記号過程は生きている。

 生ある思考と、それから生まれる諸自己の生態学を認識することは、生命に固有のものがあることを強調している。生命は考えるが、石はそうしない。

 記号過程は、明らかに差異を含んでいる。思考と生命は、世界における差異をとらえることで成長する。

 しかし、生ある思考にとっては、差異が全てではない。

 諸自己が関わりあう仕方は、私たちが言語と呼ぶ体系において、単語が互いに関わりあう仕方とは必ずしも似ていない。関わりあうことは、本来的な差異に基づくわけでもなければ、本来的な類似性に基づくわけでもない。

 生ある思考において混同すること(もしくは忘却すること、違いがわからないこと)の役割を理解することは、人間的なるものを超えた人類学を前進させるための助けとなるだろう。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳