mitsuhiro yamagiwa

知らずして知ること

 より一般的に言えば、私たちは私たちが関わりあう、ほかの生ある自己たちを知ることまでいかにして望みうるのだろうか。たとえ、非人間の生命形態が自己であるのを認めたとしても、デリダが言う、私たちとそれらのあいだを分かつ「深淵なる裂け目」が存在し、そうした非人間の生命形態が有する自己は「概念化を拒む存在」であると考えたほうがよいのではないか。

 絶対的な他者性、還元不可能な差異、共約不可能性。これらは、関わりあうことをめぐる私たちの理論が乗り越えようと努めなければならない障害となるだろう。 すなわち、可知性は本来的な自己類似性に基づいている。

 類似性と差異とは、直接的に明らかであるような、本来的な特徴ではない。パースは、「あらゆる思考と知識は、記号によるものである」と記している。つまり、考えることと知ることの全ては、何らかのやり方で媒介されたものである。

 あらゆる経験と思考は記号によって媒介されているため、内観、人間と人間のあいだの間主観性、さらには種=横断的な共感・意思疎通も、カテゴリー的に見れば異なるわけではない。これらはおしなべて、記号過程である。パースにとって、デカルト的コギト、「我、考える」は人間に限られたものでもなければ、精神に宿るものでもない。

 内観と間主観性は、記号によって媒介されている。私たちは、記号の媒介を通してのみ、私たち自身や他者を理解することができる。

 こうした媒介は、諸自己について知ることは不可能にするというよりも、知るという可能性の基礎となる。絶対的な「認知不可能性」は存在しないため、絶対的な共約不可能性も存在しない。

 思考が関わりあう道程に、諸自己も関わりあう。つまり、私たちは皆、成長を続ける生ある思考なのである。

魅惑/魔術化(エンチャントメント)

 私たちがますます機械論的に世界を見るようになるにつれて、かつて世界において認められていた究極目的、意義、手段=目的関係ーーそれらを意味=することと呼ぶことによって、手段と意味との密接な関係を強調しようーーが見失わている。

 どこを見ても、目的など存在せず、それゆえ意味も存在しないのかもしれないと私たちが疑うようになるにつれて、脱魔術化は人間的なるものや霊的なるものの領域にまで広がっている。

 しかし、目的は世界のどこか外にあるのではなく、常にその内側で繁栄する。

 生ある思考は未来を「推量」し、それゆえに、そこに向かい自らをかたちづくる未来を創造する。

 ラトゥールは、表象されうるもの、および、私たちを表象しようとする試みに抵抗できるものに行為主体性を帰している。

 なせなら、どんなモノでも、潜在的には表象されたり、それに抵抗したりしうるのであるから。

 しかし、抵抗は行為主体性ではない。抵抗と行為主体性はひとつにしてしまうと、人間的なるもののかなたに実際に存在する諸々の行為主体性に対して、私たちの目は閉ざされたままとなる。

 自己として、それらは「代弁者」を必要としているわけでもない。

 たしかに、私たち人間は、文化的、歴史的、言語的に固有の多くのやり方で生ある非人間的な諸存在を表象している。

 モノではなく、自己が行為主体性に値する。抵抗は行為主体性と同じではない。

 自己とは、不在、未来、成長、そして、混同する能力を備えた、ある特定の関係的な動態から産出される。そしてそれは、生ある思考とともに出現し、かつ、それに固有なものである。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳