形式の遊び
たしかに記号過程はベイトソンが「差異を生み出す差異」と名づけたものを伝達するために働く。だが、ルイーサがアリドリの示唆に反応したように、いかに表象的な体系が差異を伝達するのかということだけに焦点を当てることは、記号過程が形式の労なき増殖にも依存するありさまのうちの根本的なものを見逃すことになる。イコン性がこの中心にある。
すなわち、形式とは上から押しつけられるものではない。それは、流出する。このことは当然、より直観的に私たちになじみのある、ある種の解釈的な労力からもたらされる。それは、捕食者たちがある種の昆虫とそれを取り巻く環境とのあいだの差異に気づこうと「努める」方法から結果として生じる。
ルイーサのことば遊びが示すように、イコン性には私たちの限定された意思からの何らかの自由がある。それは、象徴的なものから跳び出ることができるーーだが、記号論な意味作用からではない。適切な条件を与えられれば、それは予期されなかった結びつきを創造するようにして、労なく世界を探索することを可能にする。
こういった探索的な自由こそが、クロード・レヴィ=ストロースが、(未開人の思考と混同すべきではない)野生の思考について「効率を昂めるために栽培種化されたり、家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考」と記したときに、把握していたものだと考える。それはまたレヴィ=ストロースが示唆している、自己組織化するような論理の性質を帯びる無意識の様相を、ジグムント・フロイトが認識する際に把握したものだと私は考える。
それらは失言や言い間違い、名前の忘却をフロイトが扱うさまにも見ることができる。これらは、何らかの理由で企図された言葉が抑圧されているときに、日常会話に現れる。そしてそれらはしばしば、フロイトが驚きとともに記していたが、ある人から別の人に伝染するように循環する。彼の著作の英訳では、これらの「誤った」発話は錯誤行為(parapraxes)と呼ばれており、この語はある種の目的を持った行為の不完全なパフォーマンスである、パラプラクシア(parapraxia)に由来する。つまり、思考の「効率を昂めるという目的」が取り除かれたときに残されるのは、実用的なものの副次的なものであるか、それを超え出たものである。
「精神の生態学」をまさに文字通り直接示すフロイトの洞察とは、思考のイコン的な連合の連鎖に注意深くなる方法を発展させること(そして、その増殖を促す道筋を見出すこと)であり、そして、そのありさまを観察することによって、それらが精神分析家を通じて反響するにつれて、こうした思考が探索する内部の森について何かを習得することだった。
その目的とは、最後にはそれらが関係づけられ抑圧され隠れている思考を明るみに出すこと、そうすることで、患者を治療することである。
これこそが、ルイーサの思考が提供するものである。それは、開くことの形式に到来する何らかの創造性であり、そしてその論理はいかに人間的なるものを超えた人類学が私たちを囲む世界をよりよく傾聴できるのか、ということにとって重要である。
アップ・フレーミング
下流に向かうことで、彼は自分が出発した特定の川を単により広く、より一般的な型のひとつの例化とみなすことが可能になる。この「アップ・フレーミング」の過程を通じて、彼は今では、この体系の低位の構成要素(「トークン」)として理解される、個々の川や流域の村々を包摂する、高位の秩序に創発する水準(ある種の「タイプ」)からみる視野の内部に入りこんでいた。
イヌは人間の話を、幻覚性物質を与えられたときにしか理解できない、ということを思い起こしてほしい。同様に、私たち人間は森の主たちを理解するには幻覚性物質が必要だが、これらの精霊は難なく人間の話を理解できる。
ルナは日常的に、森で狩猟した獲物の動物を野生動物とみなす。しかし彼らは、これがその真の顕現ではないことを知っている。これらの生きものを所有し、保護する霊的な主たちの高位の観点から見れば、これらの動物は実際には家畜である。
ディーコンが強調したように、記号論的な解釈の連鎖が常にイコン性で終わるのは、さらなる解釈を必要とする差異がもはや気づかれることがなくなるときに残るのがイコン性だからである(つまり、精神的な労力が終わるところが、イコン性である)、というパースの主張に倣えば、森のトリをそれらが真実あるがままにーー家畜であるニワトリとして見る主たちには、わずかばかりの解釈的な労力が要請される、と言うこともできよう。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳