mitsuhiro yamagiwa

2021-08-31

知覚の背景

テーマ:notebook

 序文

 われわれが現象学の統一性とそのほんとうの意味とを見出すのは、ほかならぬわれわれ自身のうちにおいてである。

 記述することが肝心なのであって、説明したり、分析したりすることではない。フッサールが初期の現象学に与えたこの命令、つまり「記述心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、さしあたり科学の否認である。私は、私の身体あるいは私の「精神現象」を規定するような因果性の結果でも交錯でもない。

 世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に冠する私自身の観察する、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。

 事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的に規定も、抽象的、記号的、依存的である。

 私は事物を捉える作用において、まず私自身の存在を体験するのでなければ、いかなるものを捉えることができないであろう、という事情を明らかにすることによって、デカルト、とりわけカントは、主題もしくは意識を解き放ったのである。

 反省的分析は、世界に関するわれわれの経験から出発して、経験から区別された、その可能性の制約としての主観にさかのぼり、普遍的相互を、世界が存在するための不可欠の条件として示すのである。

 世界は、私がそれについてなしうるいかなる分析にも先だって、そこに存在する。まず感覚を結びつけ、つぎに遠近法的に見られた対象の諸相を結びつける一連の総合から、世界を導出するのは、これらの感覚や諸相がまさにいずれも分析の産物であり、したがって分析以前に現実に存在すると見なされてはならないのだから、不自然な試みというべきだろう。

 現実は記述さるべきであって、組み立てられたり、構成されたりさるべきではない。これは、私が知覚を判断とか、行為とか、述定とかいった類の総合と同一視してはならないことを意味している。私の知覚領域はたえず光の反映やがさがさいう物音や触覚的印象によって充たされている。

 もしわたしの知覚の現実性が、もろもろの「表象」の内的なまとまりにしか基づかないとしたら、この現実性はいつも不確かなものであり、私は蓋然的な推測に頼って、たえず錯覚的な総合をうちこわし、はじめは異常なものとして現実から排除した現象を、改めて現実に加えなくてはならないであろう。

 知覚は世界に関する一つの科学ではない。それは一つの行為ですらない。つまり熟慮を経た上での態度の決定ではない。知覚は、その上にあらゆる行為が浮かびあがる背景であり、行為はこれを前提としている。

 世界は、私のあらゆる思惟と明瞭な知覚との自然的な場であり領野である。

 いやむしろ、内的人間などは存在しないのだ。人間は世界においてあり、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。

 ながい間、それも最も新しいテキストにおいてもなお、還元は超越論的意識への環帰として提示されている。世界はこの超越論的意識の前では完全に透明なものとして展開され、一連の統覚によってすみずみまで生気づけられている。そして哲学者は、これらの統覚からさかのぼって統覚を再構成する、という仕事を課せられることになろう。

 もしも他人がほんとうに、私にとっての彼の存在の向う側で、対自的に存在し、われわれが、われわれ相互にとって存在するのであって、私にとっての彼の存在の向う側で、対自的に存在し、われわれが、われわれ相互にとって存在するのであって、それぞれ独りで神に対してあるというのでないなら、われわれは、われわれ相互に対して現われるのではなくてはならない。彼も私も外部をもたねばならない。「対自」というパースペクティヴーーつまり私の私にたいする展望、他人の彼自身に対する展望ーーのほかに、「対他」というパースペクティヴーーつまりわたしの他人に対する展望、他人の私に対する展望ーーがなくてはならない。

 このパラドクス、自我と他者とのこの弁証法は、自我と他我とがその状況によって限定されていて、いっさいの帰属を免れているわけではないからこそ、可能なのである。

 すなわち、私が私の実存を体験し、反省の尖端にたったときですら、私を時間から脱出せしめるような絶対的密度はまだ私に欠けており、そして私が絶対的な意味での個人であることを妨げ、多数の人間のなかの人間として、あるいは少なくとも多数の意識のなかの意識として、私を他人の視線にさらすところの、一種の内的な弱みを、私は私自身のうちに発見するーー、と、こういう場合にはじめて、かのパラドックス、自我と他我とのあの弁証法は可能なのである。

 コギトは私を状況にあるものとして、あばき出さなくてはならない。そしてこういう条件においてのみ、フッサールのいうように、超越論論的主観性は相互主観性たることが可能なのである。

 たしかに私は物のあり方で実存しているのではないからだ。

 真のコギトは、かえって私の思惟そのものを、廃棄されえない一つの事実と認め、私を「世界における(への)存在」として露呈することによって、あらゆる種類の観念論を廃するのである。

 反省は世界から退いて、世界の根拠としての意識の統一に向うのではない。もろもろの超越がほとばしり出るのを見るために、後退するのであり、われわれを世界に結びつけている志向性の糸を現出させるために、それを緩めるのである。

 還元の最も偉大な教えは、完全な還元というものは不可能である、ということである。

 そして結局は、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。

 一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。ーーハイデガーの「世界-内-存在」は、現象学的還元を基礎として、初めて出現しえたのである。

 私は世界をめざし、世界を知覚する。もし私が感覚論にくみして、そこには「意識の諸状態」しかないと主張し、知覚を夢想から若干の「基準」によって区別しようとするならば、私は世界現象を取り逃す結果となろう。

 知覚の明証性は、十全な思惟、もしくは必当然的な明証性ではない。世界は私が思惟するものではなくて、生きるものである。

 世界のこの事実性は、世界の世界性を構成するものである。

 形相的方法は、可能的なものを現実的なものに基礎づける現象学的実証主義の方法である。

「いかなる意識もあるものについての意識である」、この命題は決して新しいものではない。カントは「観念論の論駁」において、内的知覚は外的知覚なしには不可能である、諸現象の連結としとの世界は、私の統一の意識のなかで予想されており、私が私自身を意識として実現するための手段である、ということを明らかにした。志向性が、カントにおける可能的対象への関係と違う点は、世界の統一が、認識によってはっきりした同一化の作用において措定されるに先だって、既成の、もしくは既存のものとして、体験される、ということである。カント自身『判断力批判』において、想像力と語性との統一、ならびに対象構成に先だつ諸主観の統一が存在することを、明らかにしている。

 肝心なことは、外から人間的意識の諸目的を定める絶対的思惟でもって、人間的意識を裏打ちすることではない。意識そのものが世界の企投なのであり、包括することも所有することもかなわぬ世界に委ねられ、たえずこれに向ってゆくこと、ーーそして世界は先対象的な個体であって、その是非もない統一性が認識にその目標を定めているということ、以上のようなものとして意識と世界とを認めることが肝要なのだ。それゆえにこそフッサールは、われわれが判断したり自発的に立場を定めたりする場合の志向性、『純粋理性的批判』が取り扱った唯一の志向性たる作用の志向性と、働きつつある志向性、つまり世界とわれわれの生との自然的な先述定的な統一を形成する志向性とを、区別するのである。

 われわれのうちで倦むことなく自己を主張しつづけているところの、世界へのこの関係は、分析によっていっそう明らかになる性質のものでは決してない。哲学は、それを改めて視線のもとにおき、われわれに確認させることしかできないのである。
 志向性のこの拡大された概念によって、現象学的「了解」は、事物の「真の不変の本性」に局限された古典的な「知解」から区別されることとなり、現象学は発生の現象学となることができる。知解された一つの物にせよ、ある歴史的事件や学説にせよ、これらを「了解する」ということは、その全体的志向を捉えること、ーーただ単に、それらが表象にとってどのようなものであるか、つまり知覚された物の「諸特性」とか、数限りない「歴史的事実」だとか、この学説によって導入された「諸観念」だとか、ばかりではなくて、つまり、客観的思惟にとってなじみやすい物理学的-数学的な型の法則ではなくて、他人や自然、時間や死に対する独特な振る舞い方、世界を形づくるある特定の仕方を見出すことである。

 歴史はイデオロギーから理解さるべきであろうか、それとも、政治から、宗教から、あるいはまた経済から理解さるべきであろうか。

 しかしまた歴史がその足で考えるのでもないことも真実である。いやむしろ、われわれは歴史の頭や足をでなくて、そのからだ全体を問題しとしなくてはならないのだ。

 フッサールのいうように、「意味の発生」なるものがあって、学説が何を「いわんとする」かは最終的にはこれによってのみ知らされるのである。了解と同じように、批評もあらゆる平面においておこなわれなくてはならないのであろう。

 実存のうちにも共存のうちにも、純粋に偶然的な出来事というものはない。というのは実存も共存も、偶然を自己に同化してそれを道理と化すものだからである。最後に、歴史は現在においても不可分であるように、継起においても不可分である。

 われわれは世界においてあるのだから、否応なしに意味を強いられており、何をしようと何をいおうと、それは必ずしも歴史のなかで、その名を得ずにはおれないのである。

 現象学が獲得した最も重要な成果は恐らく、極端な主観主義と極端な客観主義とを、世界観もしくは合理性に関するその概念のうちで結合させたことにあるであろう。

 合理性があるということは、さまざまなパースペクティヴが交叉しあい、さまざまな知覚が検証しあい、一つの意味が出現するということである。

 現象学的世界とは純粋な存在ではなくて、私のさまざまな経験の交点に、私の経験と他人の経験との交点に、相互の噛み合いをとおして現われるところの、意味なのである。

 私の現在の経験が過去の経験を引き継ぎ、私の経験が他人の経験を引き受けることによって、主観性と相互主観性とは統一される。

 現象学的世界は先行する一つの存在を明るみに出すことではなくて、存在そのものを創設することである。哲学は先在する一つの真理の反映ではなくて、芸術と同じくように真理の実現なのである。この実現はいかにして可能なのか、この実現は諸事物のなかで先在する「理性」と再開することではないのか、とこう問われるかもしれない。

 いかなる説明的仮説といえども、われわれがこの未完成の世界を引き受けてそれを全体化し、思惟しようとする行為よりも、明晰ではありえない。合理性ということは、一つの問題ではない。

 真の哲学とは世界を見ることを改めて学ぶことである。

 われわれは反省によってばかりではなく、われわれの生涯を賭ける決断によってもまた、自分たちの運命を掌握しており、自分たちの歴史の責任を担っている。そしていずれの場合にも、実行によって自己を立証する有無をいわさぬ行為が問題となるのである。

 すべての認識はいくつかの公準という「地盤」の上にたっている。そして結局は、合理性を初めて打ち建てる、世界とわれわれとの交わりに基づいている。

 したがって哲学は、いっさいの認識に向って投げかける問いを、自己自身にも向けねばならないであろう。

 現象学がいまだに未完成だという事実、いつも最初からやり直すというその態度は失敗のしるしではない。現象学が世界の神秘と理性の神秘を明るみに出すことをその使命としている以上、これは避けられないことであった。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。