mitsuhiro yamagiwa

〔経験主義と反省〕

 「図」と「地」、「物」と「物に非ざるもの」という関係、ならびに過去という地平は、そこに現われるもろもろの性質には還元されぬ意識の構造なのであろう。しかし経験主義は、この「アプリオリ」を精神の化学の結果として取り扱う方便を、依然として手放さない。経験主義は、いかなる物も物ではない地の上に現われること、また現在は過去と未来という二つの不在の間に現われることに、同意はするであろう。

 経験主義は反省の証言に耳をかさず、われわれが全体から部分に進むことによって了解すると意識する諸構造を、互いに外的な印象の連合から生みだすのだから、経験主義にたいする決定的な反証として引き合いに出せるような現象は存在しない。自己自身を顧みずに物の立場にたつ思想を、現象の記述によっ反駁することは一般に不可能である。

 明瞭と不明瞭との関係を逆転させる、まなざしのあの転回が、まず各人によって実行するされなくてはならない。

 経験主義はつねに「私には理解できない」と反駁することができるのである。こういう意味では、反省は狂気と同様、閉じた思惟のシステムである。

 そして経験主義学説そのものが、まさに意識の分析の試みななのである。

 経験主義的構築は、まず第一に「文化的世界」もしくは「人間的世界」をわれわれに隠すのだが、われわれの生活は殆どすべてそのなかで営まれている。われわれの大多数にとって、自然は漠然とした遠い存在にすぎず、町や街路や、家族や、とりわけ他人の存在によって、背後に押しやられている。ところで経験主義にとっては、「文化的」対象や人間の顔は、その表情と魔術的な力とを、転位や記憶の投射に負うているのであって、人間的世界は偶然によってしか意味をもたないのである。

 ある風景、ある対象もしくは身体の、感覚的な相のうちには、それらをして「歓ばしい」もしくは「悲しげな」、「陽気な」もしくは「陰鬱な」、「上品な」もしくは「粗野な」風貌をもつようにあらかじめ定めるものは何もない。経験主義は、われわれの知覚内容を、感覚器官に作用する刺激の物理-化学的性質によって改めて定義し、怒りや苦痛を、宗教や都市を、知覚できないものと見なすのである。

 経験主義にとっては、もはや客観的精神なるものはありえない。

 歓喜と悲哀、活発と遅鈍などは、内観の与件であって、われわれが風景や他人に、これらの感情の衣装をまとわせるのは、われわれが自分自身のうちに、これらの内的知覚と外的な徴表との合致を認めたからにほかならない。

 経験主義は、文化的世界がわれわれの実存の糧であるのに、それを錯覚と見なすことによって、経験の姿をゆがめるばかりではない。自然的世界も同様に、また同じような理由からして、その形を損なわれる。われわれが経験主義に対して非難している点は、それが自然的世界を分析の第一の主題としたことではない。なぜなら、自然はぼんやりとした遠い存在ではあろうが、いかなる文化的対象といえども自然という背景の上に現われ、これを振り返るものだからである。われわれの知覚は、カンヴァスの身近な存在を画像の背後に感じている。

 しかし、経験主題のいう自然とは、もろもろの刺激と諸性質の総和である。かかる自然について、たとえ単に志向の上とはいえ、われわれの知覚の第一の対象だとはいいはることは、馬鹿げている。それは文化的対象の経験の後にくるものである。いや、むしろ、それは、文化的対象の一つなのである。それゆえ、われわれは、自然的世界をも再発見し、科学的対象の存在とは違うその存在の仕方を、改めて明らかにしなくてはならないだろう。図が地を掩っているのに地が図の下に続き、図の下に見られるということ、対象の現前の問題の全体を包むこの現象もまた、経験主義の哲学のために隠蔽されている。その哲学は、視覚を生理学的に定義した結果、地のこの部分を、見えざるものと見なすのである。

 その結果、経験主義者はいよいよ一種の精神盲のように見え、経験主義は、顕わにされた経験をとても汲み尽くすことなどできない体系として、現われるであろう。これに反して、反省は、経験主義の従属的な真理性を理解し、その本来の場所に位置づけることができるのである。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。