足し算はすべて引き算であり、加えれば加えるほど、引いてゆくことになる。
理屈をこねるというのはどういうことだろうか?理屈をこねるというのは、主体性と客観性との情熱的な区別が排除されていることである。
無名性は現代では、普通に考えられているより以上に独特のいちじるしい意義をもっている。
どの道を行くべきか、行ける道がどれだけあるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとしないのだ。もしだれかついに自分自身のなかにある反省に打ちかって行動するにいたる人があったとしたら、その瞬間に、無数の反省が外部からその人間に向かって抵抗することだろう。
人生の実存的な課題は現実の関心を失ってしまい、成熟して決断となるべき内面性のこうごうしい成長をはぐくむような幻想などありはしない。人々はお互いに好奇の目を向け合い、みんなが決断できぬままに、かつ、逃げ口上をちゃんと心得て、何かやる人間が現われるのを待望しーー現われたら、そいつを賭けの種にしようというわけなのだ。
してみると、社会性の理念とか共同体の理念とが、現代の救いになるだろうなどとは、思いもよらないことである。すなわち、むしろ反対に、それは、個人個人が正しく啓発されることができるために出現せざるをえないスケプシスなのであって、そこで各個人は滅んでゆくか、それとも抽象物にきたえられて宗教的に自分自身を獲得するか、そのどちらかなのである。
連合の原理は〔これはせいぜい物質的利害関係に関して妥当性をもちうるにすぎない〕現代においては肯定的でなくて否定的なもので、一種の逃避であり、気晴らしであり、錯覚であって、その弁証法は「個人個人を強めることによって衰弱させてしまう」というにある。つまり数によって、団結によって強めはするが、しかしこのことこそ倫理的には一種の弱体化なのである。
どんなばかげきったことにでも署名が二十五も集まれば、結構それでひとつの意見なのだ。ところが、このうえなくすぐれた頭脳が徹底的に考え抜いたうえで考え出した意見は、通念に反する奇論なのである。
世論などというものは非有機的なもの、ひとつの抽象物である。しかし、全体の文脈自体が無意味なものになってしまったのでは、どんなに視野をひろげて概観してみたところで、どうにもなりはしない。
そして否定的な仕方でしか、つまり拒否的で反感をさそうふうでしか、人々の支えとはなれなくなることだろう。ところが他方、無限に平等な抽象物というやつがひとりひとりの個人を裁き、孤立状態におとしいれて審問しているのである。
目立たない人々は〔それぞれ相応の程度に応じて〕、旧体制における〔同じ階級の〕傑出者たちに比べてみると、二倍の仕事をもつことになるであろう。なぜなら、目立たない人々は絶え間なく働かなければならないしーー同時にまた、それを隠すためにも働かなければならないからである。
水平化そのものが神から出たものではないからである。
〔1〕幸いなことに、わたしは作家として公衆を求めたこともなければ、もったこともない。むしろわたしは喜んで「あのただのひとりの人」をもつだけで満足しているのだ。わたしがわたしの読者をこのひとりに限ったばかりに、わたしはこのことばで人の口の端にのぼることになってしまったわけだ。
(4)「選言的」というのは「あれか、これか」のどちらか一方を選ぶということで、善と悪とは相容れない矛盾としてどこまでも対立しているはずであるが、それがヘーゲルのやったように、「媒介」あるいは「止揚」されて統一されてしまうのは「蝕む反省」のしわざだとして、ヘーゲル流の、倫理のない思想を暗に諷している。
(12)「懐疑」を意味する語Skepsisが、個人個人の個性を否定して万人を均一化しようとする傾向ないし力というほどの意で使われている。
『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。