mitsuhiro yamagiwa

2023-04-09

Collective and objectivity

テーマ:notebook

 

 まさしく人間の人間に対する内在、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間こそが、共同体の思考にとっての躓きの石となっている。

 しかし個人は、共同体の崩壊という試練の残滓であるにすぎない。

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳

 

 かりに人間の人間に対する関係が、同じ者同士の関係ではなくなり、還元しえないものとしての他者、彼が注視するときには対等な者としてありながら彼とはつねに非対称的な関係にある他者を導入するとしたら、そこを領するのはまったく別の種類の関係であり、この関係はまた、ほとんど共同体とは名付けようのない別の社会形態を必然化することになる。

「おのおのの存在者の根底には、不充足の原理がある」

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ/著、西谷修/訳

 

 共通のものと独自なもの、類と個はなんであれかまわないものの尾根の両側を滑り落ちていく二つの斜面でしかないのだ。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳

 

 私たちの合理的で集団的な企てには、原理的に、異他的なものは何も見いだされず、異質なもの、私たちの理解を受けつけないものを見いだせない。私たちはただ、自分自身を見いだすにすぎないのである。

 人は他者にとっての他者となるために、会話するのである。

『何も共有していない者たちの共同体』アルフォンソ・リンギス、野谷啓二/訳

 

 

 

 科学的客観性とは、自己のあらゆる側面から免れたものではないのかーー人格や政治、宗教、国籍などの細部から、あるいは生物種からさえもーー、要するに、「どこでもないところからの眺め」のことではないのか。

 客観性とは、つねに科学を定義づけてきたのではない。それは真理や確実性と同じではなく、より新しいものである。客観性は、それまで真理の名のもとに消し去られてきた人工物や変異を保持し続ける。あるいは客観性は、確実性を掘り崩すノイズを除去することをためらう。客観的になるとは、知る者の痕跡を持たない知識を追い求めるということだーー偏見やスキル、想像や判断、希望や努力の痕跡が残っていない知識である。客観性とは盲目的視覚であり、推論、解釈、あるいは知性を抜きにして見ることである。

 すなわち、たんに現在の静止した状態にたどり着くまでの過去ーーつまり、いまあるものがどのようにもたらされたかーーというだけでなく、現在も動き続けている緊張関係の源としての過去なのである。

 概念的にいえば、この見方は提喩にもとづき、客観性のひとつの側面をアドホックに取り上げ、それが客観性のすべてであると見なしてしまっている。その基準は、あるときは感情の切り離しであったり、別の場合にはデータの記録の自動的な手順であったりする。さらに数値化への信頼であったり、人間の観察者から独立した強固な実在性であったりする。

 客観性は自己の何らかの側面、すなわち主観性という対立物を抑制する。客観性と主観性は、左右や上下のようにお互いを定義しあう。一方がなければ、他方を理解することはできないし、認識することすらできない。もし客観性が主観性を打ち消すものとして存在するようになったとすれば、客観性の登場は、ある種の意志を持つ自己、科学的知識を脅かすとされた者の出現と一致しているはずである。客観性の歴史はそれ自体、自己の歴史の一部なのである。

 あるいはより正確に言えば、それは科学的自己の歴史の一部である。

 度を超した客観性こそが、現代世界のあまりにも多くの科学技術の災厄の元凶なのではないか。

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳

 

 主観的なものの概念は、客観的なものの概念のうちには含まれていない。むしろ両者は互いに排除しあう。だから、主観的なものが客観的なものに付け加わらなければならない。ーー自然の概念の中には、その自然を表象する知性的なものもまた存在するということは含まれていない。自然は、その自然を表象するものがたとえないとしても、おそらく存在するであろう。

 超越論的な考察法の中では、ほかのすべての思惟、知、あるいは行いの中では意識されないもの、つまり、決して客体とされることはないものを意識へともたらし、客体としているということである。端的に言えば、主観的なものが絶えず自分自身の客体となることである。

『超越論的観念論の体系』シェリング/著、久保陽一・小田部胤久/編、深谷太清・前田義郎・竹花洋祐・守津 隆・植野公稔/訳

 

 ポストトゥルースとは真実が存在しないという主張ではなく、事実がわたしたちの政治的視点に従属するという主張なのだという感覚を抱くだろう。 

『ポストトゥルース』リー・マッキンタイア/著、大橋 完太郎/監修、居村 匠・大﨑 智史・西橋 卓也/訳

 

 わたしたちはつねに人間でありつづけてきた、あるいは、わたしたちは人間でしかない。少しでも確信をもって、誰もがそう断言できるわけではない。西洋の社会・政治・科学におけるこれまでの歴史的契機は言うに及ばず、現在でもなお、わたしたちのなかには完全には人間とみなされていない者がいるのだ。

 わたしたちは、目下経験している根本的な変容に匹敵できるような、主体形成についての新しい社会的・倫理的・言説的図式を考案しなければならないのだ。それはつまり、わたし自身について異なったしかたで考えることを学ばなければならないということである。

『ポストヒューマン』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳

 

 表象=代表制の錯綜した成り立ちを一括消去したように見せかけるファシズムはそれによって、自らが現代における投機=思弁的な表象=代表制の究極的な機構であることを隠す。つまりはその崩壊や激突がどのポイントで来るかを分からなくしてしまうわけだが、このとき衝突自体は表象の過剰性の域に達するとともに、表象の水面下にとどまる。死角は、誤った信念と死で満たされる。実体的世界を後にして進んだ道は、もう戻りようがない。

 しかしそこに例外なく共通しているのは、平等性と同質性に置き換えようとする働きである。そしてその際、同質なものの中身は様々である。

 美術とは、いわばそれ自体が暗号化の営為なのだ。これはメッセージの有無に左右されない。

 美術の魅力(および価値)というのは多かれ少なかれ、それがやみくもに「集合知」と呼ばれるものや「一般人気」のからくりを再生産しないゆえに成立している部分がある。そんなふうになったり、あるいは未来や予測市場の要請からつくられたりするとして、それがどれほどすべての美術にとって奇妙な事態であり、同時に壊乱的なものか。

 表層は、主体と対象が配された舞台や背景という役割から解放され、主体と対象のほか、運動や情動、作用の方向因子を折り重ね、それらの間に人為的に引かれていた認識論的な境界線を消し去るのである。

『デューティーフリー・アート 課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』 ヒト・シュタイエル/著、大森俊克/訳

 

 人間による自然の観測は個々の知覚作用に密接な類似を示している。というのは、この知覚作用を、たとえばフィヒテと同じように、「われわれの自己制限」としてとらえることができるからである。すなわち、いかなる知覚作用においてもわれわれは、無限に豊富な可能性から特定のものを選び出し、よってもって将来への豊富な可能性をもまた制限するわけなのである。

『自然科学的世界像』W.ハイゼンベルク/著、田村 松平/訳

 

 物は一見死滅するかのように見えても、じつは完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作り直すのであって、如何なる物でも、他のものの死によって補われることのない限り、生れ出ることは許されない。

『物の本質について』ルクレティウス/著、樋口勝彦/訳

 

 私たちはもっぱら、人間の言語を構造化する連合の形式についての想定を通じて、諸々の自己と諸々の思考が連合を形成する仕方を想像しているだけである。そのために、たいていは意識されることなく、このような仮説は非人間に投影される。そのことに気づかずに、私たちは自らの特性を非人間に与え、またさらにこのことをこじらせるかのように、非人間に対して、自らの矯正された鏡像をさし出すことを、自己陶酔するように求めるのである。

 私たちが人間的なるものを越えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである。

 人間的なるものを人間的なるものを超えたところから見ることは、自明とされるものを単に不安定にするだけではない。この試みは、分析と比較の用語そのものを変えることになる。

『森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野克己・近藤宏・近藤祉秋・二文字屋 脩他/訳

 

「わたしたちは動物であるがゆえに、より直接的に、植物よりも他の動物に自分自身を重ね合わせる」のだ。

 植物には、自分を取り巻く環境との関係を選択的に結ぶことができない。植物は周囲の世界に常に晒されていて、晒される以外にない。植物の生命とは、環境との絶対的な連続性のもとで、全体的な交感を通じて、自分をすっかりさらけ出すしかない生命なのだ。

『植物の生の哲学:混合の形而上学』 エマヌエーレ・コッチャ/著、山内 志朗/訳