mitsuhiro yamagiwa

2023-04-05

無定形性

テーマ:notebook

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 しかし、反省状態にいつまでもいつづけたり、反省のなかですっかり立ちどまってしまったりするのが、困ったことであり、危険なことなのである。それは行動の前提条件を逃げ口上に変えてしまって、退却へと誘うことになるからである。

 あれかこれかのどちらかを選ぶという絶対的な選言的情熱があってこそ、個人は自分自身との一致を決意することができるのだが、その情熱のなかにある創造的な全能の力が、分別的な反省の外延性に一変してしまうのである。あらゆる可能なことを知り、そしてあらゆる可能なものであるということになるために、自分自身と矛盾することになる、すなわち、まったく無であるということになるからである。矛盾律というものは個人を力づけて、自分自身にたいして忠実ならしめるものだ。

 つまり、自分自身と矛盾しながらあらゆるものになるよりは、どんなちっぽけなものであってもよいから自分自身に忠実でありたいと思うのである。

 ほんとうに黙っていることのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙っていることのできる者だけが、ほんとうに行動することができるのだ。沈黙は内面性である。おしゃべりは、ほんとうに語ることを先取りしてしまい、反省の所見は機先を制して行動を弱める。しかし沈黙をまもることができるがゆえにほんとうに語ることのできる人は、語るべき多くの話題をもたない、ただひとつの話題をもつばかりであろう。そしてその人は語るべき時と黙する時を見いだすであろう。おしゃべりは外延的にひろがっていく。つまり、おしゃべりはありとあらゆるものをおしゃべりの話題にし、そしてひっきりなしにしゃべりつづける。

 個人個人が足ることをは知って心静かに、満ち足りて心ゆたかに、宗教的な内面性に甘んじて、心を内に向けているというのではなくて、むしろ反省関係において心を外に向け、互いに求め合うような時代、なにか大きな事件が起こって糸のはしばしばをつなぎ合わせ、みんなが一致団結して破局に立ち向かうということのないような時代、そのような時代には、おしゃべりが時を得顔に栄えるのだ。

 すべての人々が同じひとつのことについて語ることだろう。

 おしゃべりは沈黙の瞬間を恐れる、沈黙の瞬間は空虚さを暴露するだろうからである。

 理想性とは、相対立するものの均衡だからである。

 人間は、沈黙のうちに理想性とイデオロギーをもつことが多ければ多いほど、それだけ、日常の交際の談話においても、あれこれの特定事実を話題にしてさえ、まるで、少し距離をおいて話しているとしか思えないようなふうの話しぶりで、日常生活や平凡な人々の生活を再生させることができるだろう。理想性が少なければ少ないほど、外面性が多ければ多いほど、それだけ対話は、ただむやみと人の名前を口にしたり、たしかにだれそれさんはああ言ったのこう言ったのとならべたてて、「まったく確かな」私的な情報をただ意味もなく単調に繰り返すばかりであろう。

 沈黙のうちにおのれみずからを省みているということが、社交上の教養ある談話の条件であり、内面性をねじまげて外へ向かせるのは、おしゃべりすることであり、教養の欠如である。

 というのは、公衆とは、最も私的なことにたいして関心をもつ公共的なものだからである。だれひとり会衆の前ではあえて述べることのないようなこと、だれも話の話題にしえないようなこと、当のおしゃべり屋自身でさえそんなことをしゃべったとは認めだからにいようなこと、そういうことでも、公衆のためになら、結構、書かれもするし、公衆という資格でなら知らされることもできるのである。

 無定形性とは何か?それは、形式と内容との情熱的な区別が排除されていることである。

 ところで情熱のない、しかし反省的な時代にあっては、無定形性が普遍的になるということは、極端に違ったもの同士がお互いに媚び合うような交際となって表われるほかに、その正反対の形でも、つまり、「原理のために」行動しようとする圧倒的な傾向および意欲となっても表われる。原理とは、この語のあらわすとおり、最初のもの、すなわち実体的なものであり、感情や感激がまだ形をとって顕現するにいたらない状態にあるイデーであって、その内部にひそむ推進力が個人を駆り立てるのである。情熱のない者はこの原理を欠いている。情熱のない者にとっては、原理はなにか外的なものとなり、そのために彼はひとつのこともすればまた他のこともし、またその反対のことまでもすることになる。

 むしろそういう人の内的生活は、なんとなくせわしいもので、たえず途上にあり、「原理のために」なにかをなそうと追いかけているのである。こういう意味での原理は、なにか奇怪なもの、公衆と同じような、なにか抽象的なものになってしまう。浅薄さとはなんであろうか、そして浅薄さが好む傾きをもつ「顕示欲」とは何であろうか?浅薄さとは、隠蔽と顕現との情熱的な区別の排除されたものである。浅薄さは、空虚の顕現である、けれども、幻影をちらつかせて人を眩惑する点で、外延的には、ほんとうの顕現にまさっている。顕現が深みという唯一独自な本質をもっているのにたいし、浅薄さはさまざまの、ありとあらゆる外観を呈するからである。また、顕示欲とは、反省のいだく空想の自画自賛である。秘められた内面性は、顕現となりうるような本質的なものに押し出したりしている暇などもたず、時がくるまで長いあいだぼんやりかすんでいる。

『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。