第 2 章 本性への忠誠
客観性以前
まず真理が先にあったのであって、それは客観性とは区別されてきたのである。
自然の可変性を飼いならす
第1章で述べたように、これらアトラスの目的は、その分野で観察する主観(主体)と観察される対象を標準化し、特異性ーー個々の観察者だけでなく、個々の現象のーーを排除することにあった(現在でもそうである)。私たち現代人は習慣的にモノの客観性と個人の主観性を対置させるので、もっとも気にかけるのは特異的な主観(主体)についてである。つまり「個人誤差」、理論的なバイアス、そのときどきの気まぐれなどである。しかし変則的な対象も、共同でおこなう蓄積的な科学においては同じくらい大きな脅威となる。自然が同じことを繰り返すことはまれであり、可変性と個別性は例外というよりむしろ通常であるからだ。
無数の偶然とゆらぎが、数学的な完全性や生物のタイプから逸脱を生み出すのである。
観察のなかの理念
典型を探求するための観察はつねに継続的におこなわなければならない。一個人による一回限りの観察はきわめて間違いやすいからである。「というのも観察者が自身の目で純粋現象を見ることは決してない。むしろ多くのものが彼の精神状態、その瞬間における感覚器官の状態、光・空気・天候・物体・取り扱い方その他いろいろな事情に依存しているのである」。
自然はすべての芸術と科学にとってモデルであり、最終法廷であるーーただしその自然とは、精錬され、選択され、総合されたものだ。このような芸術と科学における視覚の一体化は、両者が同じ使命を共有していたことから生まれたものである。すなわち、ひとつの観察よりも、注意深くふるい分けられ、比較された多数の観察こそが、より信頼に値する自然の真理への導きとなるということである。
四眼の視覚
理性にもとづく図像は心の目を通してしか見ることができないため、博物学者と画家の関係において、認知的な側面と社会的な側面は混じり合うことになる。
本性への忠誠を追求する博物学者にとっての忠実な図像とは正確に見たままを描いたものではなかった。むしろそれは、理性にもとづく図像であり、理性を感覚と想像力に押しつけることによって、さらには博物学者の意志を画家の目と手に押しつけることによって到達するものだった。
自然を写生する
「自然を写生する」ということは、長期にわたって組織化されたプロセスの最終段階であった。
見るということは直接的な知覚であると同時に、総合的な記憶と識別という行為でもあったのである。
客観性を追求するアトラス制作者の視点から見れば、選択、統合、理想化はすべて主観による歪曲であった。これらのアトラス制作者たちは、人間の手がつけられていない図像、「客観的」な図像を追求した。
客観性以降の本性への忠誠
「自然写真もまた、主観的な影響を受けやすい。二人の写真家や二つの別のカメラが、ひとつの対象を同じように写し取ることはない」。こうして写真は客観性のためではなく、本性への忠誠のために利用されることになったのである。
タイプ標本は「固定されたルール」を優先して植物学者の「純粋に属人的かつ恣意的な」部分、すなわち植物学者の「個人誤差」を排除することを約束するものになるーーあるいは「個人的な判断を使う自由」を厳格に制限する脅威となるのである。
一八世紀の知識人は、可変性を対象そのものなかに位置づける傾向があったーー偶然的なもの、個別のもの、奇形の対象として。だが一九世紀半ばになると、可変性のおもな要因は[人間の]内側へと移り、単一の対象を図像の万華鏡のなかへと写してしまう多元的な主観的視点へと移行していった。
アトラス制作者は観察のなかの理念を描く代わりに、自然にそれ自体の自画像ーー[客観的な光景」ーーを描かせるように変容していったのである。
『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。