mitsuhiro yamagiwa

3 章 機械的客観性

曇りなく見る

 すなわち、自然の声が聞こえるように観察者を黙らせようとする、認識上の信念、図像作成の実践、道徳的な態度である。これこそが機械的客観性である。

「自然それ自身に語らせよ」。これが新しい科学的客観性のスローガンとなった。この言葉は、科学的な図像作成における価値の逆転をもたらすものであった。

 機械的客観性という言葉で、私たちはある執拗な衝動のことを指している。その衝動は、画家・著者の意志による介入を抑制し、その代わりに一連の手続きを設定しようとする。この手続きは自動的とまではいかないまでも、厳格なプロトコルに従うことで、いわば自然を書籍のページ上へと移すものだった。

 機械的客観性がいまだかつて完全な形で実現したことがあっただろうか。もちろん、そんなことはなかったし、機械的客観性の推進者たちも、それが統制的理念であることを知っていた。

 このように自己と視覚を二重に矯正することで生み出されたものは、科学的客観性として知られるようになった。

 対象をこの理想やあの理想「として見る(see as)ことがいかに魅惑的だとしても、客観的な視覚による恩恵とは、「それをみる(seeing that)」以上のことをしないところにある。

 機械は意志の自由の代わりに、意志からの自由をもたらしたのであるーー主観性のもっとも危険な側面と見なされるようになった、あの意志に満ちた介入からの自由である。

 機械はその欠点においてさえ、非介入主義的な客観性という否定的な理想を体現するものだったのである。

 客観性は一八四〇年代を通して科学アトラス制作の現場にゆっくり浸透しはじめ、その後急速に勢いを強め、一八八〇年代から九〇年代には激流となって、ほとんどあらゆる場所で見られるほどになったのである。

 写真による図像は、客観性の歴史における不動の第一動者と呼ぶにはほど遠く、また写真図像すべてに客観的視覚という地位が与えられたわけでもない。むしろ反対に、写真もまた批評され、変形され、切り取られ、貼り付けられ、レタッチ[補正]され、エンハンス[強調]されていた。そもそもその出発点から、科学的客観性と写真とは決して単純な決定論で結びつくような関係ではなかった。同様に、すべての写真が、それが写真だという事実だけによって客観的と見なされたわけでもなかったのである。

科学および芸術としての写真

 写真は単体の発明ではなく、むしろ複数の発明によって成り立っている。

 写真現象過程という自動処理が約束したのは、人間の解釈の影響を受けない図像てあったーーこれこそが客観的図像と呼ばれるようなものである。

 「自然を模倣すること」は、想像力の放棄だけにとどまらず、ボードレールをはじめとするロマン主義的批評家が偉大な芸術の核心だと考えていた個性をも放棄することだったのである。

 真の芸術には、制作者の個性と想像力による解釈という刻印がおされていなければならない。それゆえ、自然の「機械的」な模倣は芸術とは呼べないのである。

 一八六〇年代には、「機械的写真」という言葉は審美的写真(たとえば肖像写真)と対立するものとして使われるようになった。これは科学と芸術という新しい対立を示すものであり、その結果、客観的な写真(科学)と主観的な写真(芸術)という二つのジャンルの混合はスキャンダルになる可能性が出てきた。

 顕微鏡観察においても見えるものの多義性といった根深い問題があり、観察者が「描写のなかに自身の仮説にもとづく説明を意図せずして埋め込んでしまう」傾向を防ぐために写真による図示が必要であるとされた。写真が科学的客観性をもたらすと考えられたのは、それがあらゆる特定の種類の科学的主観性に対抗するものだったのである。その主観性とは、目に映るものを美化したり理論化したりする介入にほかならない。

自動的図像と盲目的視覚

 一九世紀末の科学アトラス制作者にとって機械とは、理想であると同時に導きとなる概念だった。意志では不十分なとき、意志による乗っ取りの恐れがあるとき、あるいは意志が正反対の方向へと引き裂かれるとき、機械が助けとなったのだ。

 機械は忍耐強く、疲れを知らず、つねに注意深く、人間感覚の限界を越えた領域にまで探求を広げた。

 「人間の手による自然の複製が、複製物や模倣物になることはけっしてない。それらはつねに解釈なのだ……なぜなら、人間は機械ではなく、対象を機械的に描写することはできないからである」。

 クールベ《画家のアトリエーー現実的寓意》
ーータイトルが示唆するのは、現実的なものと寓意的なものとを同時に描くことは可能であり、またそうすべきということである。

 科学的客観性と芸術的主観性との両者ともが、能動的で解釈をおこなう意志の評価を中心的な論点として共有していたのである。

 観察者は像の一部だけに注意を向け、さらに規則的に見える部分を好む。そして「残りの部分は想像力で埋めてしまう」傾向がある。

 客観性とは、自然の理想的規則性を信じてしまう心に対し、世界の不規則性を押しつけることなのだった。

自己監視

 個性というものについての知識がほんの少しでもあれば、それぞれの人で記録に必要とされる時間が異なるということがわかる。

 いかなる「理論的結論」も持たないこと、そしていかなる「実践上の結論」も持たないこと。

 写真は、人間の眼がくらむほどのきわめて強力な照明によって、事物の細部まで明らかにすることができた。そして顕微鏡を繰り返し引っ張り出さずとも、他者に自分が見たものと同じものを見せることを可能にするのは写真だけなのである。

ーー客観性はそれぞれの文脈に応じて、教育的効果、色彩、被写界深度、そして診断上の有用性さえも犠牲にするように求めた。

客観性の倫理

 原則として、規律化された眼が見たものを手軽に模倣し確証するだけで、それ以上のことは一切おこなわない。第二に客観性とは、自己を拘束し規律化するように自分自身の意志を涵養することを意味している。このために欲望は抑圧され、誘惑は遮断され、権威、美的な快楽、自己愛による歪みの影響を受けずに見る断固とした努力が擁護されたのである。カハールにとって、そして他の多くの者にとって、内面的状態と外面的手続きの双方の統制こそが、客観的視覚を特徴づけるものだったのである。 機械的客観性は自然の正しい描写をえるためのものであったが、客観性がまず最初に優先すべきは自己抑制の道徳とされていた。

 真理とは、誰の目にも見える形で世界の表面に横たわっているものではなかったのである。

 機械的客観性とは、つねに逃げ続ける、完全に手にすることは決してできない理想なのである。

 本質的な細部と偶然的な細部を区別しないこと、不完全もしくは非典型的な標本を修正しないこと、ある図像の重要性を説明しないことーー 一八世紀のアトラス制作者にとって、これらは徳にもとづく抑制を示すものではなく、無能の証拠として受け止められていたのである。

 つまり重要な発見に熱中しているときでさえ、自身のもっとも厳しい批判者の視点を持つことによって矯正していくのである。

 機械的な図像のひとつの様式にすぎなかった写真は、非介入主義的な客観性のあらゆる側面を象徴するものとなった。

 非介入性こそがーー真実に迫っているかどうかでさなくーー、機械的客観性の核心に位置していたのである。

 客観的な図像の興隆は、芸術と科学における視覚空間を二極化させ、それにともなって二つの領域が果たす役割は意志の役割をめぐって分裂していった。

 「私は物たちをあるがままの姿に、というか、私が存在しないと仮定した場合にそれらがあるであろうままの姿に、表象したいと思う」。

 年を経るごとに、自分では完全に客観的だったと思っていた場合でさえ、実際には依然としてかなりの程度、主観性な見方に固執してきたことに何度も気づかされるのです。ルドルフ・フィルヒョー

 彼らの結論によれば、主観性なき客観性とは、究極的には自滅してしまう野望なのである。

それは、自然を正しく描くことを望んだ科学的自己とは誰だったのかという問いである。

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。