mitsuhiro yamagiwa

2022-03-27

望遠鏡と顕微鏡

テーマ:notebook

 科学的客観性とは、自己のあらゆる側面から免れたものではないのかーー人格や政治、宗教、国籍などの細部から、あるいは生物種からさえもーー、要するに、「どこでもないところからの眺め」のことではないのか。 

 むしろ客観性と主観性は対をなして出現したもので、説明すべきはそれらを分ける線なのである。

初版前書き

 客観性には終わりがないように思われた。

 私たちの語りは、断絶の物語というよりも、再構成の物語であることが明らかになってきたのだ。

 その核心には、社会的であると同時に、認識論的なかつ倫理的でもあるような「ものの見方」があるのだ。

第 1 章 眼の認識論

盲目的視覚

 客観性とは、つねに科学を定義づけてきたのではない。それは真理や確実性と同じではなく、より新しいものである。客観性は、それまで真理の名のもとに消し去られてきた人工物や変異を保持し続ける。あるいは客観性は、確実性を掘り崩すノイズを除去することをためらう。客観的になるとは、知る者の痕跡を持たない知識を追い求めるということだーー偏見やスキル、想像や判断、希望や努力の痕跡が残っていない知識である。客観性とは盲目的視覚であり、推論、解釈、あるいは知性を抜きにして見ることである。

 すなわち、たんに現在の静止した状態にたどり着くまでの過去ーーつまり、いまあるものがどのようにもたらされたかーーというだけでなく、現在も動き続けている緊張関係の源としての過去なのである。

客観性は新しい

 科学的客観性の歴史をは驚くほど短い。

 客観性の前には本性への忠誠があり、客観性の後には訓練された判断がやってきた。新しいものがつねに古いものを押しのけたわけではない。いくつかの分野は新しい認識的徳に急速に征服された一方で、別の分野は古いものに従順なままであった。

 私たちは、客観性があらゆるところに偏在し、抗しがたくなったのはいつのことなのかを知りたいのだ。

 Objective とsubjectiveという用語の歴史には何度もねじれた反転があったが、両者はつねに対になって使われてきた。抑えつけるべき主観性なしには客観性はありえなかったし、その反対も同様である。

科学的自己の歴史

 原因と結果という言葉自体も、切り離された異なるものごとを指し示している。つまり、原因と結果は、実体としても時間的にもお互いに明確に区別されなければならない。おそらく望遠鏡と顕微鏡のメタファーが身近に感じられるのもそのためだろう。両方とも距離が離れていたり、到達しがたい対象を近くに持ってくるための装置である。しかし原因と結果の関係だけが説明のすべてではない。問題となる現象のあいだに思いもよらなかった別の種類のリンクがあることを明らかにすることも、理解の幅を広げ、深めるのである。

客観性の本質とは何だろうか。最初にもっとも重要なこととして、客観性は自己の何らかの側面、すなわち主観性という対立物を抑制する。客観性と主観性は、左右や上下のようにお互いを定義しあう。一方がなければ、他方を理解することはできないし、認識することすらできない。もし客観性が主観性を打ち消すものとして存在するようになったとすれば、客観性の登場は、ある種の意志を持つ自己、科学的知識を脅かすとされた者の出現と一致しているはずである。客観性の歴史はそれ自体、自己の歴史の一部なのである。
 あるいはより正確に言えば、それは科学的自己の歴史の一部である。

認識的徳

 倫理的とは、世界のなかで存在するやり方と結びついた行動の規範的なコードであり、個人や集団が持つ習慣的な性質といるう意味でのエートスである。一方、道徳的とは、守られたり犯されたりする、そしてそれに個人が責任を持つことになる、具体的な規範的ルールである。

本書の議論

 データに完璧さや期待を投影してしまう意志に満ちた自己はもはや敵ではない。むしろ敵は、ほかのすべての自己とは質的に異なる経験の世界に閉じ込められた自己である。
 このように心理的生活のほとんどが、とくに感覚と表象が、手に負えないほど私的で個人化されたものであるという確信は、それ自体、一九世紀末における感覚生理学と実験心理学の科学研究プログラムがきわめてうまくいった成果であった。

 よりグローバルな視点から位置づけられることによって初めてローカルなレベルでも認識されるような、時間的・地理的なスケールで展開する発展があるのである。

 ここで私たちの関心は、一方では認識論的な不安定性の条件をとらえることであり、他方ではその結果として生まれた新しいパターンを特定することであるーー客観性は、それらの結果のなかでもっとも衝撃的なものであった。

普段着姿の客観性

 度を超した客観性こそが、現代世界のあまりにも多くの科学技術の災厄の元凶なのではないか。

 さまざまな客観性の意味は、規則としても実践としても一致するものではない。「世界の実在のあり方についての体系化された理論的な学説」として理解される「客観的な知識」は、こんにち弱体化した形而上学が真理と認めるものと近いものである。

 ある行為を繰り返し繰り返しおこなうことによってーー身体の操作だけでなく、精神的な修練としてーー客観性は存在するものである。

 より根本的なことは、歴史的な視点によって、客観性の倫理的な意味も変えられるということである。もし客観性がなじみ深い人間の価値に無関心であるかのように見えるとすれば、その理由は客観性そのものが価値の規範だからである。客観性の価値は、一般的に認められるところでは特有かつ奇妙なものである。

 図像とは、知ることができるように世界がつくられる過程の可視化された痕跡なのである。

『客観性』ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン/著、瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪/訳より抜粋し流用。