b 創造の自由
なんとなれば、もし顕示への意志に対して、本質の内面へ帰り行こうとする他の意志が対立しなかったとすれば、顕示への意志そのもが生きたものではないであろう。
e 神における選択(ライプニッツ)
ーーかくて、神における可能性と現実性との合一に反対する種々の根拠もまた、自己矛盾でないものはすべて可能であるという、可能性の全く形式的な概念から取り出されている。
しかし神において、その本質或いはそのもろもろの完全性を顧みないということは考えられないことであろう。
すなわちそれでもやはりそのものからは、神に関してそのような可能性は何も出てこないであろう、というのは、根底は神と呼ぶべきではなく、また、神はその完全性からすればただ一つのものを欲し得るのみであるから、と。
d 悪の存在理由
すべての実存は、それが実際の、すなわち人格的な、実存たらんがためには、或る制約を要する。
故に単なる制約から、すなわち根底からくるものは、神の実存には必要であるが、神よりくるものではない。
なんとなれば、激発された我性それ自体が悪なのではなく、それがその対立者すなわち光或いは普遍意志から全く自己を絶離した限りにおいてのみ、悪なのであるから。
超克せられた、従って現動の状態から潜勢の状態に引き戻された我性のみが善である。そしてまたそれは、潜勢という見地から見て、善に克服されたものとして、善のうちにいつまでも存続する。
善と悪とは同じものでただ異なった側面から見られたにすぎないと言われ、或いは、悪は自体においては、すなわちそれの同一性の根においては善であり、他方また善も、それの二分(Entzweiung)または非同一性において見られれば悪であると言われるのは、弁証法的に全く正当である。
e 要点の再説
神は根底においてはこの自由意志すなわち彼の心胸に従って動くのではなくして、単に彼の諸性質に従って動くのである。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳
転化と定立 »