f 回心の可能
人間一般の性状からすれば、行為するのは彼自身ではなくして彼の内なる善い精神かまたは悪い精神かである。
なんとなれば、善いまたは悪い原理をして自己のうちに行為せしめるというまさにそのことが、彼の本質と生とを限定している叡智的行の結果なのである。
二 人間における悪の現象
かくてわれわれは、悪の始原や発生を、個々の人間におけるそれの現実化に至るまで明らかにしてきた。後に残るところは、人間におけるそれの現象を記述することのみであると思われる。
a 悪の総括的説明
人間の眼は神的なるものの、また真理の、輝きを見やりつつ堅持する力なくして、いつも非有であるものの方を見るのである。かくして罪の初めは、人間が、自身創造する根底となろうとして、また自己のうちに有する中心の力を持って以って万物に君臨しようとして、本来の有より非有へ、真理より嘘偽へ、光より闇へ、踏み入ることである。
悪のうちには、自己自身を組み尽しどごでも滅ぼそうとする矛盾がある。
b 宗教心の意味
恣意的なる善は恣意的なる悪と等しく不可能である。
それは良心的であること、すなわち知れるがごとく行へ、そしてその行において知の光に矛盾するな、ということである。
第四 神の愛
一 弁神論
神は自己顕示を欲した時にまた悪をも欲したのであるか。
a 神の人格性
神を自然と結ぶ紐帯によってのみ神のうちの人格性が基礎づけられる。これに反して純粋な観念論の神も、純粋なる実在論の神も、必然的に非人格的存在である。フィヒテ及びスピノザの概念がその最も明らかな証拠である。
全自然はわれわれに向かって、自分は決して単なる幾何学的必然によって現存しているのではないと語っている。自然のうちには純然たる純粋理性があるのではなくして、人格性と精神とがあるのである。
かくも永く支配してきた幾何学的悟性は、とっくに自然の底まで貫入して、普遍的にして永遠なる自然法則というそれらの偶像を、今日までになされたよりもっとよく確証していた筈であろう。しかるにその悟性は、むしろみずからに対する自然の非合理的な関係を日々にますます認めぬばならないのである。創造はいかなる出来事でもなくして一つの行である。もろもろの普遍的法則からの結果というごときものは存在しない。
彼らは全く必然的(かの抽象的意味において)でもなく、また全く恣意的でもなく、一切を超えて完全である智慧から由来する法則として、その中間に立っている。」動力的な説明法の最高の努力は、かく自然法則を心情・精神・意志に還元することにほかならない。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳