b 人間の叡智的本質
自由なる行為は人間の叡智的なるものから直接に結集するものである。しかしその自由な行為は必然的に一つの限定された行為、例えば、最も手近な例をとれば、一つの善いまたは悪い行為である。しかるに絶対的に無限定なるものから限定されたものへは、なんらの移り行きも存しない。
かかるものはすべて(心理的なるものでも物理的なるものでも)その存在者の下に位するものである。
「限定は否定なり」(Determinatio est negatio)という箴言は、かかる限定には決して当て嵌まらない。この限定は存在者そのものの措定(Position)及び概念と一つのものであり、従って本来は存在者のうちの本質(das Wessen in dem Wessen)であるからである。
なんとなれば、自己自身の本質の諸法則に従ってのみ行為し、自己の内のまた外のいかなる他のものによって限定されないものこそ、自由なのである。
c 自由と必然との合一性
個々の行為が自由なる本質の内的必然性から、かくしてまたそれ自身必然性をもって、結果するということは動かぬところてなければならぬ。
しかしまさにかの内的必然性が直ちに自由なのであり、人間の本質は、本質的には、彼自身の行なのである。必然と自由とは唯一本質として融合する。ただ唯一本質が異なった側面かは見られれば一或いは他として現われる。
自我は、とフィヒテは言った、自我自身の行である、意識は自己定立であるーしかも自我はこれと異なったものでもなくして、まさに自己定立そのものである。 それは実在的なる自己定立(reales selbstsetzen)である。
d 永遠の叡智的行
人間は、根源的創造においては、さきに示したごとく一つの未決定な存在者である。
ーーただ彼のみが自己を決定することができる。しかしこの決定〔決断〕は時間のなかに落ちてはならない。あらゆる時間の外に、従って第一の創造(これと異なる行としてであるが)と同時である。人間は、時間の中に生まれれるのではあるが、しかも創造の元初(中心)のうちへ創り出されているのである。
e 根本悪
自己の内のまた外の人間を単に表面的にしか知り得なかった者のみが、人間のうちなるこの根源的悪を否認し得る。
ただ自身の行によって、ただし出生以来、招致されたかの悪のみが、根本悪と呼ばれ得る。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳
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