mitsuhiro yamagiwa

2023-05-27

根源的未決定

テーマ:notebook

c 人間における悪の普遍的必然性

 根底の意志はしかし、あらゆるものを特殊化し、または被造物的となすことにある。その意志は不同等性のみを欲する。ただしそれも、かくしてその意志は必然的に、超被造物的なるものとしての自由に対して反作用し、その自由のうちに被造物なるものへの嗜欲を呼び醒す。

 普遍的意志と人間のうちの特殊的意志との結合は、既にそれ自体において一つの矛盾であり、その矛盾を合一することは不可能でないまでも困難であるように思われる。生そのものの不安が人間を駆って、彼がそのうちへ創り出されたその中心を去らしめる。

 人間はすべての我性に死なねばならぬ。であるから、この中心から周辺へ歩み出で、かくしてそこに自己の我性の安らいを求めようとすることは、ほとんど必然的なる企てである。ここからして罪悪と死との普遍的必然性も出ている。

 しかもかかる普遍的必然性にもかかわらず、悪はあくまでも人間がみずから進んで択ぶものである。しかし、しからばいかにして個々の人間のうちで悪または善への決定が行われるのか。このことはまだ全く不明のうちに包まれており、そして一つの特別な研究を要求するように思われる。

第三 人間における悪の実現(自由の形式的本質)

a 恣意均衡の体系と決定論

 自由とは、二つの矛盾的対立をなすもののうちに一或いは他を、なんらかの限定根拠なしにただひとえにそれが意欲せられるが故にのみ意欲するというごとき、全く無限定な能力のうちに存するというのであるが、この考え方は、観念そのものとしては人間の本質の根源的未決定を表わしてはいるが、それが個々の行為に適用された場合には、きわめて大きな種々の不都合に導くからである。

 「どちらかへの傾きはない、従ってどちらをしてもそれは根拠なしにである」云々。限定根拠の不知からそれの不存在を結論する以上、これはどう見ても悪い証明の仕方である。しかもこの場合これを逆に用いることもできるであろう。なんとなれば、不知が出現するところにこそ、それだけ一層確かに被限定ということが起こっているのであるから。要は、この考え方が個々の行為の全き偶然性を導き入れるものであり、この点からすれば、エピクロスが自然学において同じ意図のもとに、すなわち運命〔の必然性〕を回避せんがために、案出した諸原子の偶然的逸脱に比せられたのも頗る当然だということである。偶然はしかし不可能である。理性にもまた全体の必然的統一にも撞着する。そして、もし自由が行為の全き偶然性を以ってしなければ救い得ないものならば、それは畢竟救い得ないものである。  

『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳