第八章 「公」の場における個性
個性が公の場に現れたのは、新しい世俗的な世界観が社会全体に現れたからであった。この世界観は〈自然の秩序〉を、自然現象を秩序づけることによって置き換えた。
個性とは、この世界に内在する意味を信じることの一つの形であった。
私が考えるには、世俗主義を独立した社会的な力として思い描くことができないのは、まさしく今日信じるという行為それ自体を現実のものとして考えられないことに由来している。
宗教は、ルイ・デュモンが述べたように、人間社会が存在する大部分の間、人間社会の大部分にとってまさに第一の社会構造だったのである。
今日神々はわれわれの心から逃げ去ってしまっているがゆえに、われわれは容易に、信じることの過程そのものが基本的な社会のカテゴリーであることを止めてしまい、社会的な産物になっていると想像してしまうのである。
十八世紀と十九世紀は、世俗化の過程の二つの段階とみたほうがいい。「〈自然〉および〈自然〉の神」は顔のない神であり、人はあがめることはできても祈ることはできなかった。〈自然〉が超越的なものであっても、それを信じることは死後の信仰のあつい生とはならなかった。ということは、信じることによって存在を超越することにはならなかったのである。世俗主義の妥当な定義としては、「ものごとが世の中でいまのままである理由、いったんわれわれが死んだとなると、それ自体では問題にならなくなるところの理由」だというのはこのためなのである。
十九世紀には信じようとする意志は偶像でないものへの信仰からより内省的な状態へと移ったーー信じることは、人間自身の直接的な生活と、人間が信じることのできるものすべてを限るものとしての経験とにますます中心を置くようになった。
神々が逃げ去るにつれて、感覚と知覚の直接性がますます重要になり、現象は直接の体験としてそれ自体が真実なものと思われるようになった。次に人々はお互いに与えあっている直接的な印象の違いをますます重要視し、実にこうした違いを社会的生存のまさしく基礎とみなしがちになった。いろいろな人々が生みだすこうした直接的な印象が、彼らの「個性」とされたのだった。
個性がそれぞれ異なるのは、感情の現れと感じている当人の内的性質とが同じだからである。人の外見がその人であり、それゆえに違った外見をもつ人々は違った人々である。外見が変化する時は、自己のなかにも変化がある。啓蒙主義の共通の人間性への信念が薄れるにつれて、個人の外見の違いが個性そのものの不安定さに結びつくようになる。
もし個人がある仕方で控え目に行動するならば、自分を自然な性格と調和させることになった。個性は行為によっては統御できないものである。環境は異なった外見を強要し、そこで自己を不安定にするかもしれない。唯一の統御の形態は、自分が感じているのは何かをたえず明確に述べようと試みることだけかもしれない。この自己を統御する感覚は大体において回顧的であって、人は経験が終わった後になって自分のしたことを理解する。この体系のなかでは、意識はいつも感情の表現に追随するのである。したがって、個性は人々の間の怒りや、同情や、信頼の違いで成り立っているだけではない。個性はまた感情を「取り戻す」能力でもある。
自発性は他人にも自分自身にも害になるとは思えない安全な不本意な感情なのである。
異なることへの自意識が表現の自発性を抑制するのである。
外見によって創られ、少しでも統御するものといえば自分の過去についての自意識のみで、異常であることによってのみ自発的である個性ーーこうした新しい条件の個性が、前世紀において、社会そのものを個性の集まりとして理解するために使われだした。個性が首都の公的領域に入っていったのはそうした一般的な状況においてであった。
マルクスの個性は人それぞれに異なり、各人の内部では不安定である。なぜなら外見は衝動から離れていないからである。外見は「内なる」自己の直接的な表現なのだ。つまり、〈自然〉そのものと同じく世界のすべての外見を超越する自然な性格とは対照的に、個性は外見に内在しているのである。
目に見えるあらゆるものは象徴である。あなたが見るものはそれ自体独立してそこに存在しているのではない。厳密に解すれば、そこにはまったく存在していない。〈物質〉はただ精神的にのみ存在しており、ある〈観念〉を表し、それを体現するためにある。
個性を社会的な範囲として公的領域に押し入れたのは、個性へのこの世俗的な信仰、内的な感情への手引きとしての直接的な外見への信仰と、産業資本主義の経済との統合だった。以来この二つの力は対話を続けている。
知るためには、人は自分自身の、自分自身の関わり合いの、色めがねで見てはならなかった。このことは、理解するためには公の場では沈黙すること、科学的調査の客観性、目の美食学を意味した。
世俗主義の声、またこの対話におけるその役割を理解するためには、できるかぎり具体的に、一人の人間がこのような観点から世界を解釈するところからはじめるのが最善であろう。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳