mitsuhiro yamagiwa

2023-03-12

想像と反省

テーマ:notebook

α 無限性の絶望は有限性を欠くことである

 人間の生き方が無限になったつもりでいる、あるいはただ無限でのみあろうと没する瞬間瞬間が、絶望なのである。なぜかというに、自己は総合であって、総合においては、有限なものは限定するものであり、無限なものは拡大するものであるからである。したがって、無限性の絶望は、想像的なもの、限界のないものである。 一人の人間がどれだけの感情を、認識を、意志をもっているかということは、つまりは、彼がどれだけの想像をもっているかということに、言いかえると、感情の認識や意志がどれだけ反省されているかということに、すなわち、想像にかかっている。老フィヒテが、認識に関してさえも、想像が諸範疇の根源であると考えたのも、まったく正しい。自己とは反省である。そして想像は反省であり、自己の再現であり、これは自己の可能性である。想像はあらゆる反省の可能性であり、そしてこの媒体の強さが、自己の強さの可能性である。

 想像的なものとは、一般に、人間を無限なもののなかへ連れ出して、だんだんと自己自身から遠ざけるばかりで、そうして、人間が自己自身に帰ってくることを妨げるものである。

 このようにして、感情が想像的になると、自己は、ますます稀薄になっていくばかりで、ついには一種の抽象的な感傷になってしまうが、そのような感傷は、非人間的にも、いかなる人間のものでもなく、たとえば、「抽象的な」人類といったような、なにか抽象体の運命に、非人間的にも、いわば多感な同情を寄せるものなのである。

 彼はある仕方で無限化されるが、しかし、ますます自己自身になるというふうな仕方で無限化されるのではない。なぜなら、彼はますます自己自身を失っていくのだからである。

 自己は、認識が増せば増すほど、それだけ多く自己自身を認識するということである。認識がこのようにおこなわれない場合には、認識が上昇すればするほど、ますます一種の非人間的な認識となり、この非人間的な認識を獲得するために、人間の自己が浪費されることになる。

 意志が想像的になる場合にも、同じように自己はますます稀薄化されていく。この場合、意志は、だんだん抽象的になっていくが、それと同じ程度にだんだん具体的でなくなっていく。

 神との関係は無限化である。しかし、この無限化は人間を想像的に引きずり込んで、それが単なる陶酔にすぎなくなることがある。人間には、神の前にあることが堪えられないように思われることがある。それはすなわち、人間が自己自身に帰ってくることができないからである、自己自身となることができないからなのである。

β  有限性の絶望は無限性を欠くことである

 無限性を欠くことは、絶望的な偏狭さ、固陋さである。

 つまり、どうでもよいことに無限の価値を与えるのが、世間というものなのだ。

世間間的な考察は、いつも人間と人間とのあいだの差別にのみ執着し、だからまた当然のことであるが、唯一の必要なもの〔これをもつことが精神の精神たるゆえんなのだから、〕にたいする理解をもたず、それゆえにまた、偏狭さと固陋さにたいしても理解をもたない。これはつまり、自己自身を失っていることにほかならないのであるが、それも、無限なもののなかに稀薄化されることによってではなく、まったく有限化されることによって、すなわち、ひとつの自己であるかわりに、ひとつの数となり、この永遠に一律なものに加わるもう一個の人間、もうひとつの繰り返しとなりおわることによって、自己を失っているのである。

 実際、世間と呼ばれているものは、いってみれば、この世に身売りしているそういう人々ばかりから成り立っているのである。  

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。