mitsuhiro yamagiwa

2023-03-10

無限の譲与

テーマ:notebook

C 絶望は「死にいたる病」である

 絶望する者は、何事かについて絶望する。一瞬そう見える、しかしそれは一瞬だけのことである。

 絶望する者が何事かについて絶望したというのは、実は自己自身について絶望したのであって、そこで彼は自己自身から脱け出ようと欲しているのである。

 それゆえに何事かについて絶望するのは、まだ本来の絶望ではない。それは始まりである。あるいは、医者が病について、症状がまだあらわれていない、と言うときのようなものである。

 絶望する者は、絶望して自己自身であろうと欲する。しかし、もし彼が絶望して自己自分であろうと欲するのなら、彼は自己自身から脱け出ることを欲していないのではないか。確かに、一見そう思われる。

 しかし、もっとよく見てみると、結局、この矛盾は同じものであることがわかる。絶望者が絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない〔なぜなら、彼が真にそれである自己であろうと欲することは、もちろん、絶望とは正反対だからである〕、すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているのである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力を尽くしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。

 しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が自分で見つけ出した自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう。ところが、彼がそれであることを欲しないような自己であることを強いられるのは、彼の苦悩である、つまり、彼が自己自身から脱け出ることができないという苦悩なのである。

 人間のうちになんら永遠なものがないとしたら、人間はけっして絶望することができなかったであろうし、また、もし絶望が絶望者の自己を食い尽くすことがてきたとしたら、絶望というものも、もはや存在しなかったであろう。

 このようにして、絶望は、自己におけるこの病は、死にいたる病である。

 死は病の終局ではなく、死はどこまでもつづく最後なのだ。

 なぜなら、この病とその苦悩は、ーーそして死は、死ぬことができないということそのことなのだからである。

 そこで、彼が自分の自己から脱け出ることができないという苦悩がどこまでも残り、それが彼にできるなどと思うのは単なる空想でしかないことが顕わになるであろう。そして永遠はそうするにちがいない。なぜかというに、自己をもつこと、自己であることは、人間に与えられた最大の譲与であり、無限の譲与であるが、しかし同時に、永遠が人間にたいしてなす要求でもあるからである。

C この病〔絶望〕の諸形態

 絶望の諸形態は、抽象的には、総合としての自己が成り立っている諸契機を反省することによって、見いだされるにちがいない。自己は無限性と有機性とから形成されている。

 自己とは自由なのである。しかし、自由は弁証法的なもので、可能性および必然性という規定をもっている。

 一般に、意識、すなわち自己意識は、自己に関して決定的なものである。意識が増せばそれだけ自己が増し、意志が増せばそれだけ自己が増す。意志を少しももたないような人間は、自己ではない。しかし、人間は、意志をもつことが多ければ多いほど、それだけまた多くの自己意識をもつのである。

 そこで、自己が自己自身にならないかぎり、自己は自己自身ではなく、そして自己が自己自身でないということこそ、絶望にほかならないのである。

『死にいたる病 現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。