附論
解釈の不安とレトリックの誕生ーーフランス・ポストモダニズムの北米転換と「ポストトゥルース」
つまり、ポストモダニズムによれば、あらゆる事象は複数の読みが可能なテキストとみなすことができるし、そこからいかなる解釈を引き出すこともできるということになる。のみならず、そこで引き出された「真なる」解釈も、その解釈をおこなった人間のイデオロギーの反映に過ぎない。
構造変化の原因は外部から来るものとして、つまり「偶然性」や「カタストロフ」として考えられる。だが、突然変異や疾患のメカニズムにみられるように(あるいは民衆モデルでもよい)、「カタストロフ」を生み出す要因は構造の内部にも存在している。すなわち、「カタストロフ」とは、構造の変化をさしあたり外的な要因によって説明しようとする概念装置であり、しかもそれは完全なる外部であるかどうかは疑わしい準-外的な地平からの働きかけだと考えられる。
あたかもヘーゲルに対抗したキルケゴールのように、脱構築という営為は、構造的な真理の体制に安住できない絶えざる不安から行われる散種として考えられる。
つまり、政治においては、科学的根拠に基づく判断および意志決定よりも、「やってる感」を醸成することによる情動喚起の方が効果的な場合があるということであり、とりわけレーガン時代以降、断続的なイメージが次々に繰り広げられるテレビ以降のメディア環境においては、こうした情動喚起の仕組みがますます支配的になったと考えられている。
こうして、レーガン以降の政治は、信頼できる見解を形成する傾向や、不安を感じさせる見解を拒否する傾向を強化させる。情動重視のこうした傾向に加えて、ポストトゥルースを促進させる要因だと言われるのが、ポストモダニズムによって導入されたと言われる「多視点主義」である。
ニーチェの用語で遠近法主義といわれるこの考え方は、視点に応じて事実の解釈がいかようにも変わりうるというものであり、ニーチェに由来してフランス現代思想にまで影響を与えている。
つまり脱構築とは、真理のあり方をめぐって営まれる徹底的に批判的な試みであり、そこにおいて、到達すべき目標や決定的な着地点などは存在しえない。それは真理の一義的なあり方、「真実はいつもひとつ」という単純かつ常識的な言明を根本から疑うラディカルな懐疑主義である。それゆえ脱構築はつねに「不安」に裏打ちされる。
ポストトゥルースは、真理と虚構のあいだの緊張関係を取り払い、真理の領域を虚構の領域にシームレスに取り込んでしまう。真理とは虚構に包摂された虚構の一形態にすぎない、ということになる。
真理は虚構の群れのなかに放り込まれ、簡単には見分けがつかないものとなる。
自らを「オルタナティヴ」と名乗る対抗的な「事実」が、自らを「決して「ワンオブゼム」ではないもの」として演出してくる、という事態こそが、ポストトゥルースの問題ではないのか。そこでは「真実/嘘」というラベルでさえ、二者間の立場の違いを示すだけに用いられてしまう。
「 正しさ」が度外視された結果、議論は異なる論理同士の相容れない対立となり、少なくとも見かけの合理性において等価である以上、情動ないしは信念にもとづく意見の側が多数派を形成しやすい、ということになる。
信念や、とりわけ情動は、もっとも個別的な、個人的なものであったはずだ。
だが、まさしくポストトゥルースは、特定の状況から形成されたものでしかない「信念」や「情動」を、人を集団として駆動させる根本的かつ直接的な契機にしようとする。ゆえに「不安」を解消されねばならない。これ以上疑いようのない何かをベースにわたしたちは「同意形成」しているという状況を、ポストトゥルースは作り出そうとする。
情動の再構成が情報の再発見を促す。レーガンの事例からもわかるように、今日では情動の伝達それ自体が共感にもとづく同意形成の手段となる。極端な場合、情報は最低限でいいということになる。つまりポストトゥルースとは情動が情報を覆い遮ってしまうことであり、それを打開するためには、情報(=真理)を情動(=政治)から守りつつ、両者の新たな関係性を発明する必要がある。情報自体(intelligence)がすぐれて知的なものであることを考えれば、知性を根源的な正の情動と結びつけるスピノザ主義は、有益な視座をもたらすかもしれない。
訳者あとがき
とりわけ問題とされているのは、「公共の意見を形成する際に、客観的な事実よりも感情や個人的な信念に訴る方が影響力のある状況を説明するないしは表すもの」というポストトゥルースの定義から帰結する政治的体制がもたらすリスクである。事実=真実を軽視する態度が、政治的にいかなるメリットを生み、人々の生活的にいかなるリスクを生み出しうるのかという点をマッキンタイアは強調している。
マッキンタイアは、信念や政治的党派性が原説の価値を決定づけかねないこうした状況を「前真理」と述べ、ポストトゥルースのもつ超近代性と前近代性を同時に摘出する。こうした傾向に対する「真理」「事実」の価値を担保するものは、ただ「現実」しかないということが仮の結論となる。「真理」に立脚しない「現実」の脆さや危うさ、そのリスクを考えることが、さしあたりのポストトゥルースへの対抗策として考えられているのである。
『ポストトゥルース 』リー・マッキンタイア/著、大橋 完太郎/監修、居村 匠・大﨑 智史・西橋 卓也/訳より抜粋し流用。