mitsuhiro yamagiwa

2021-09-04

反 / 省

テーマ:notebook

〔反省的分析と現象学的反省〕

 およそ知覚的意識というものは、すでに感覚の彼岸にあることになるのだから、感覚そのものは、実は感覚されていないのであって、意識はつねに、対象についての意識なのである。われわれが感覚に思い至るのは、知覚について反省し、知覚がすみずみまでわれわれの作りだしたものではないという事実をいい表わそうと欲するときにである。

 感覚は構成されたものの領域に属し、構成する精神に属するものではない。世界という観点に立ち、世間の憶見に従ったとき、初めて知覚は一つの解釈として現われるのである。

 知覚とは、知覚すると思惟することにほかならない。

 知覚の個体性とは、知覚が自己自身について無知という状態にあることにすぎない。

 スピノザがいうように「前提なしの結論」を私に与える知覚の有限性、意識が観点に従属しているという事実、これらはすべて私自身に対する無知に、つまり反省しないでいることができるという全く否定的な私の能力に帰着することになる。

 意識はたえず自己の歩みを捉え直して、同一のものと認知できるような一個の対象のうちに収約し定着させ、次第に「見る」ことから「知る」ことへと移行しつつ、自己自身の生の統一を獲得するのであるが、意識のこうした現実の運動を追求しないうちは、われわれは意識の抽象的な本質しか得られないだろう。

 主知主義は絶対的な客観性から絶対的な主観性に移行する。

 経験主義は空間・時間的な出来事の総体としての世界の存在を絶対的に信じ、意識をこの世界の一区画と見なしていた。

 この宇宙とは、実は、知覚された世界そのものであって、ただ、その構成的起源から分離されたものであり、またこの起源が忘却されることによって、明証的となったものにすぎない。

 存在に関する確信のなかには、その現存を超え、それを疑う余地のない「かつての現在」として、あらかじめ想起の系列のなかに建てる、一つの志向がある。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。