mitsuhiro yamagiwa

2021-09-07

先取りの経験?

テーマ:notebook

Ⅳ 現象の領野 

〔現象の領野と科学〕

 いかなる力も作用していないが故に静止している物体と、あい反する力が釣り合っている
物体とは、視覚にとって同じではない。

 感覚するということは、つねに身体への指示を含んでいる。

 知覚された対象にせよ知覚主体にせよ、それが厚みをもつのは、感覚するという働きのおかげである。

 自然的対象とは、われわれにとって、依然として理念的な統一であり、ラシュリエの有名な言葉によれば、一般的な諸特性の組み合わせだったのである。

 他人を知覚するとはいっても、ほんとうに他人を知覚することではありえなかった。というのも、この知覚は推論からの結果であって、したがって自動機械の背後に置かれていたものは、単なる意識一般であり、その運動に住まうものではなくて、その超越的な原因にすぎなかったのだから。

つまり構成的な「我」の前では、もろもろの経験的自我は対象なのである。

 対象を理念化し、生ける身体を客体化すること、そして自然と共通の尺度をもたない価値の次元に精神をまつりあげること、これが、知覚によって始められた認識の運動をさらに続けることによって到達された透明な哲学の正体なのだ。

〔現象野と超越論的哲学〕

 客観的世界がわれわれに知られるのは諸現象によってであるから、心理学的反復は客観的世界に対して現象がもとであることを認め、そのあげく、可能な限りのすべての対象を現象に統合し、現象をとおしていかに対象が構成されるかを探求してみようという気になる。それと同時に、現象野は超越論的領野となる。
今や意識は認識の普遍的な源泉であるから、「心的」諸内容からなるある全体というような存在の特殊な領域では、断じてない。

 客観的世界の手前にある生きられた世界を顕わにした解明が、ひき続いて生きられた世界そのものに向い、現象野の手前に超越論的領野を露呈せしめるのである。私-他人-世界というシステムが今度は分析される番になる。そして今や肝心なことは、他人と個人的主体としての私自身と、私の知覚の極としての世界とを、構成している思惟を、よみがえらせることである。

 それは私をして私の経験をすみずみまで所有せしめ、反省するものと反省されるものとの完全な一致を実現することであろう。

 形態は世界の出現そのものであって、その可能性の制約ではない。

 それは外的なものと内的なものとの同一性であって、内的なものの外部への投射ではない。

 反省は、それ自身、非反省的なものの事実性を分有する創造的な作業であると考えねばならない。それゆえ、いっさいの哲学のうちでただ一つ現象学だけが、超越論的領野について語るのである。

 超越論的な「我」は一つの「存在」ではなく
「統一」もしくは「妥当」であるので、経験的自我は、これを分割することなく、これにあずかることができる。

 カント哲学のいわゆる超越論的な「我」は私のものであると同時に他人の自我である。

 反省がその成果と同時に反省自身をも意識しない限りは、完全な反省ではありえないし、その対象をすみずみまで明らかにしたことにもならない。

 哲学が解き明かされた経験にすぎないように、経験は一つの哲学を先取りしている。

『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。