mitsuhiro yamagiwa

第ニ章 公的領域と私的領域

4 人間ーー社会的または政治的動物

 〈活動的生活〉とは、なにごとかを行なうことに積極的に係わっている場合の人間性格のことであるが、この生活は必ず、人びとと人工物の世界に根ざしており、その世界を棄て去ることも超越することもない。物と人とは、それぞれの人間の活動力の環境を形成しており、このような場所がなければ人間の活動力は無意味である。 人間生活は、たとえ自然の荒野における隠遁生活であっても、直接間接に他の人間の存在を保証する世界なしには、不可能である。

 たしかに人間の活動力は、すべて、人びとが共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人びとの社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。

 そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しているのである。

 ただ二つのものだけが政治的であるように思われ、アリストテレスが政治的生活と名づけたものを構成するように思われた。すなわち活動と言論がそれである。

 思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は同時的なもの、同等のもの、同格のもの、同種のものと考えられていたのである。

 もっと根本的にいうと、言葉が運ぶ情報や伝達とはまったく別に、正しい瞬間に正しい言葉を見つけるということが活動であるということをも意味していた。

5 ポリスと家族

 生活の私的領域と公的領域の間の区別は、家族の領域と政治的領域の区別に対応しており、それはもともと、少なくとも古代の都市国家の勃興以来、異なった別の実体として存在してきた。

 すなわち、家族の集団が経済的に組織されて、一つの超人間的家族の模写となっているものこそ、私たちが「社会」と呼んでいるものであり、その政治的な組織形態が「国民」と呼ばれているのである。

 人びとが家族の中で共に生活するのは、欲求や必要によって駆り立てられるからである。

 いずれの場合でも、政治的権威による抑制を必要とし、正当化するのは社会のための自由(ある場合には、一般にいわれている自由)である。こうして、自由は社会的なものの領域に位置し、力あるいは暴力は統治の独占物となる。

 すべての人間は必然に従属しているからこそ、他者にたいして暴力をふるう資格をもつ。つまり、暴力は、世界の自由のために、生命の必然性から自分自身を解放する前政治的な行為である。

 自由であるということは、生活の必要〔必然〕あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという、二つのことを意味した。それは支配もしなければ支配されもしないということであった。

 したがって、平等は、現代のように正義と結びついているのではなく、ほかならぬ自由の本質だったのである。つまり、自由であることは、支配に現われる不平等から自由である、支配も被支配も存在しない領域を動くという意味であった。

 政治は社会の機能にすぎず、活動と言論と思考は、なによりもまず社会的利害の上部構造であるというのはカール・マルクスの発見ではなく、むしろ、マルクスが近代の政治経済学者から無批判に受けついだ自明の仮定の一つである。このように政治が社会の機能となったおかげで、二つの領域のあいだに重大な深淵があることを認めることができなくなった。これは理論あるいはイデオロギーの問題ではない。というのは、社会が勃興し、「家族」あるいは経済行動が公的領域に侵入してくるとともに、家計と、かつては家族の私的領域に関連していたすべての問題が「集団的」関心となったからである。現代世界では、公的領域と私的領域のこの二つの領域は、実際、生命過程の止むことのない流れの波のように、絶えず互いの領域の中に流れこんでいる。

 世俗的領域に固有の特徴は、すべての活動力が私的な意味しかもたぬ家族の領域に吸収されるということでありしたがって公的領域がまったく欠如しているということであった。

 政治はけっして生命のためではない。ポリスの構成位置にかんする限り、家族生活はポリスにおける「善き生活)のために存在するのである。

6 社会的なるものの勃興

 たしかに近代の私生活は政治的なものと対立している。しかし、正しくいえば、私生活は少なくともそれと同じ程度に、社会的領域ーーそれはその内容を私的な問題と考えていた古代人には未知なものであったーーと鋭く対立しているのである。いいかえると歴史上、決定的な事実は、親密なものを保護するという最も重要な機能をもつ近代の私生活が、政治的領域と対立しているというよりは、むしろ社会的領域と対立していることが発見されたということである。

 社会にたいする反抗的態度は、結局、ルソーやロマン主義者たちが親密なるものを発見するきっかけになったが、この反抗的な態度は、なによりもまず、社会的なものが押しつける一様化の要求に向けられていた。

 社会というものは、いつでも、その成員がたった一つの意見と一つの利害しかもたないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振舞うよう要求するからである。

 社会の勃興と家族の衰退は時を同じくしていた。

 すなわち、社会の場合には、家族より人員が多いので、それでなくても共通するただ一つの利害と全員が認めるただ一つの意見が当然もっている力が、さらに強められる。

 画一主義の現象は、このような近代における事態の推移の最終段階に特徴的なものである。

 社会はどんな環境のもとでも均質化する。だから、現代世界で平等が勝利したというのは、社会が公的領域を征服し、その結果、区別と差異が個人の私的問題になったという事実を政治的、法的に承認したということにすぎない。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。