したがって共同体は、営みの領域に属するものではありえない。それは生み出されるのではなく、有限対の体験として体験される(あるいはその体験がわれわれを形作る)のである。作品としての共同体、あるいは諸々の作品からなる共同体とは仮にそうしたものがあるとして、共同存在それ自体、客体化しうるものであり、生産可能である(さまざまな場所、人間たち、建造物、言説、制度、象徴なうちに、要するに諸主体のうちに)ということを想定している。
共同体は、ブランショが無為と名づけたもののうちに必然的に生起する。
共同体は諸特異性の中断によって、あるいは特異存在たちがそうである宙吊りによってできている。
コミュニケーションとは、社会的、経済的な、技術的、制度的な営みの解体としての無為なのだ。
「存在が私だけだということはけっしてない。それはつねに私と私に似た者たちである」。
われわれが互いに似た者であるのは、われわれが自分自身にとってそうである外に、われわれ各々が曝されているからなのだ。
私は他者のうちに私を再発見するのでも、私を再認するのでもない。私は他者のうちに、あるいは他者によって、「私自身のうちで」私の特異性を私の外に置き、それを果てしなく終わらせる他性と他化とを体験するのである。共同体とは、他と同とが似たものとなっている、つまり同一性の分有となっている特異な存在論的機制なのである。
おのれの限界に移行しつつ、有限性は一方「から」他方「へ」と移行する。この移行が分有を生むのである。
共同体は、われわれのいっさいの企てや意志や企画のはるか手前に、存在とともに、そして存在と同様、われわれに与えられている。実のところわれわれは、それを失うことなどできないのだ。
ある意味では、共同体とは抵抗そのものである。つまり内在に対する抵抗だ。
「政治的なもの」とは、おのれのコミュニケーションの無為に向けて構制され、もしくはこの無為へと差し向けられた共同体、つまり自らの分有の体験を意識的に遂行する共同体の謂でもあろう。
おまえが似た者に通わせない不安は、ある意味で見下されないがしろにされているのだ。
『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。