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第一章 自然と再帰性
自然法則が必然的であり続けられるのは、例外により反証されるまでのことである。それによりこれは偶然的なものとなり、物事は別様でありうることになる。つまり一つの法則ではなくなり一つの事実となる。
一. 偶然性は自然の理解の基礎にある。
ニ. いかなるシステム哲学も、観念論的であれ実在論的であれ、精神的(「わたし」)の外の自然に取り組まなけれはならず、したがって偶然性の問いに取り扱わざるをえない。
システムの基礎が偶然的であるとすれば、あらゆる知識は宙吊りにされ、その妥当性を剥奪されることになる。
有機的であるということは、ただ諸部分ー全体の関係を維持しているというだけでなく、自己組織化とオートポイエーシスというものが指し示されてもいる。これをわれわれは再帰性と呼びたい。さらに、もし技術システムの問いに取り組むなら、自然という概念の歴史、それもヘーゲル的な意味でつねにみずからの他者である自然という概念の歴史を検討する必要がある。自然という概念についての緻密な検討を通じてはじめて、テクノロジーの問いが明晰に見えてくる。
ハイデガーも述べている。「技術、すなわち自然の歴史」。
第9節 カントとシステムのモデル
シェリングは、偶然性こそがおそらく根拠つまり「実体的なもの」であり、合理的なものはその偶有性でしかなく、そのもろもろの表現の一つにとどまると主張しているからである。別言すれば、もし偶然性が原根拠「その(Urgrund)であるなら、それは一つの非根拠(Urgrund)または脱根拠(Abgrund)でもあるということである。
カントいわく、「自然はむしろみずからを組織化するのであり、それもその組織化された諸産物の一つ一つの種の内でそうするのであるーー一般的なもろもろの特徴についてはたしかに単一のパターンにしたがいながら、それでいて特殊的なさまざまの境遇の下でも自己保存が保証されるように計算された逸脱を許容するのである」。
第10節 哲学の有機的な条件
自然目的は客観的に観察できない何ものかである。われわれにはあれこれの樹木や動物は見えても、一つの全体としての自然はもろもろの機械的法則を通じて捉えることはできない。理性にできるのは自然目的を反省的判断力を通じて理解することだけである。つまりそれは何らかの自己組織的な存在者へと再帰的に到達するだけである。A → B → C→A。
美しいものはただ象徴的にあるばかりではなく、むしろ作動という観点からすると類比的である。というのも有機的なものはここでは反省的判断力の形式をとるが、実践理性もまた同じ作動様態を共有しているからである。
できるものなら機械的な原因をすべて枚挙すればそれで十分となるわけであるが、しかし世界原因というものがわれわれを強いて現象を何らかのより広範な視野の内に状況づけさせるのである。すなわち不思議な全体である。
偶然的なものは自然目的へと向かう運動にすでに刻印されて内在しているからである。
テーゼ : 自然法則にしたがう因果性は、この世界の現象がすべてそこから導き出されうる唯一の因果性ではない。現象を説明するには、自由を通じた因果性をも仮定する必要がある。
アンチテーゼ : 自由は存在せず、この世界の万物はただ自然法則によってのみ生起する。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。