mitsuhiro yamagiwa

2022-10-12

非理由性

テーマ:notebook

第7節 生態学以後、太陽破局以前

 思弁的理性は、感性的なものを超え、無媒介に与えられたデータを超え、現象は多くの可能性と必然性の一つにすぎないと認識できる領域にまでゆこうとする。

 科学が哲学になるためには、現象を超えて動き、何もかも経験的な証拠に還元しようとするのをやめ、むしろたとえばシェリングが提案した思弁的自然学のような、新たな地平へと思考を上昇させなければならない。

 テクノロジーの加速と人間の終焉について、もしかするとわれわれはこういうべきかもしれない。残るのは、ポストヒューマンでもトランスヒューマンでもなく、非人間的なものである。

 非人間的なものというのはまずもって一つの否定であるが、しかしそれは二つの異なる事実を否定している。

 リオタールはこの第一の意味の非人間的なものを、システムと同定する。

 非人間的なものが「わたしよりもわたし自身の内奥」であるということ。アウグスティヌスにいわせれば、それは神である。しかし神の死以後は、それはハイデガーのいうように未知のものであり、あるいはスティグレールがモーリス・ブランショとイヴ・ボヌフォワにならっていうように非蓋然的なものである。それは計算可能性や統計や先制的なアルゴリズムには還元できない何かである。

 合理主義者には、新旧問わず、未知のものや不可知のものの要点が見えていなかった。

むしろ、非合理的なものは合理的なものの極限なのである。

 それどころかむしろ、象徴主義と同じように、合理主義もあくまで思考の手段の一つにすぎないのである。合理主義は自分で神を殺してしまってから、必死になって或る一神教を維持しようとしているが、その名前をシステムというのである。

 適応の受動性と自由の能動性との緊張はどうすれば解決できるのか。

 人間の自由は善悪いずれの可能性でもある。シェリングが示そうとしたように、悪が出現するのは形象が根拠を乗っ取るときであり(またしてもゲシュタルト心理学における図-地のように)、我意が普遍意志を乗っ取るときなのである。

 エリュールには、神をテクノロジーに置き換えただけの同じ宗教の道を繰り返さないことの難しさが見えていた。

 一つは、テクノロジーを未知のものと見なすことである。技術というのはわれわれがまだ自分のこれまでの経験内では遭遇したことのない何ものかなのである。そうでなければ、それは新しくもないしそこには進歩もないわけで、それに意味を与えるということは合理性を与えるということになるであろう。もう一つは、テクノロジーを未知のものの顕現と見なすとともに、未知のものがそれを通じて合理化されるところの手段と見なすことである。

第8節 未来の宇宙論者たち

 再帰的な総体性に抵抗するために、自由と自律に続いているかもしれない非常口として、絶対的な偶然性に頼る哲学者たちがいる。

 それはあらゆるシステムと人間的認知を凌駕する。

 しかし、予想というとき、われわれはすでに或る主体を前提してはいないか。すなわち、思考し予想する主体を。

 メイヤスーにとっての絶対的な偶然性とは、自然と精神の相関から脱却する試みであり、その背後に回り込んだ新たな認識論的な基礎づけが可能であると証明する試みである。

 メイヤスーにとって絶対者は、思考の外、精神の射程外、一切の因果性の外に措定されるのでなければならない。

 たとえば、われわれは神が実存するともしないともいえない。なぜなら、彼は実存するかもしれないし、しないかもしれないからである。

 相関主義から離れることは、可能的なものの実存の新たな探求の扉を開く一つの道である。

 思弁的理性の使命を、メイヤスーによる事実性の新たな扱い方によって理解することもできるであろう。それは「事実性を思考の限界ーー物の究極的な理由を発見することができないという思考の無能力ーーの指標とするのはもうやめて、物の絶対的な非理由性を発見することができる思考の能力の指標とする」ことを提案する。

 超カオスは「一つの絶対者」であり「相関主義という脱絶対化を逃れる」ものである。

 絶対的で不整合な存在者の内には、いかなる偶然性もほとんどありはしない。

 不整合な存在者にはできないこと、それが変化、他者への生成である。というのも矛盾しているということは、それはすでにそれではないものであるからである。偶然性の必然性は、(誤解されたポストモダンの印象にあるような)カオスへの回帰を提案しているわけではなく、偶然性の絶対性の肯定を提案しているのである。

 主客の相関は人類中心的な行き方として批判されうるし批判されなければならない。そこでは思弁は感覚の確実性よりも下位の序列に置かれている。

 主客相関から逃れることは思弁の余地を与えてくれはするが、どうすればそれはわれわれに新たな認識論を与えてくれるのか。絶対的な偶然性という概念はたしかに注目すべきものではある。システムに限界を設けるからである。つまり偶然の出来事を、一つのただの統計的な可能性でしかないものに還元することができない、というシステムの無能力である。絶対的な偶然性は一つの反システムの概念である。

 われわれは新たな認識論を基礎づける新たな道をまだもたない。なにしろすべての真理が相対的になっているからである。

 行き詰まりの後にはいつも新たな認識論、新たな根拠がある。たとえその根拠が無根拠であっても恐れてはならない。絶対的な偶然性はシステムの多元性を肯定する。そこには人間存在たちでは把握しえないシステムも含まれている。

 多元性の肯定には、まさしく自由の問いが横たわっている。なぜなら、自由になるということは、図と地のいずれも差異化するとともに遅延化する能力をもつということ、数世紀にわたる共時化としての近代化の後に未来を分岐させることのできる能力をもつということであるから。

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。