三 悪の消極的概念の批評
a ライプニッツ
すなわち悪は原理の積極的なる逆倒または転倒に基づくという考え方
それらは根本においては、ことごとく、積極的対立者としての悪を没却して、これをいわゆる形而上的悪(malum metaphysicum)へ還元するということに基づいている。すなわち被造物の不完全性という否定的概念に基づいているのである。
ライプニッツは曰く「神が人間にすべての完全性を賦与するということは、人間自身を神たらしめるという結果を招くことなしには不可能であった。同じことは被造的な存在者一般について言える。
「悟性は悪の許容への根拠を内に含んでいる。しかし意志は善にのみ向う。」
「この唯一の可能性は神が作ったのではない。悟性はそれ自身の原因〔動因〕ではないからである。」
一般的形而上的意味においての不完全性は、悪の普通の性格ではない。というのは、悪はしばしば個々の力の卓越と結びついて現われ、しかもその卓越が善に伴なうことは遥かに稀だからである。
悪の根底は第一の根底の、顕わとなった中心或いは根元意志のうちに存するからである。
「悪のうちにおいて肯定的〔積極的〕であるものは、単に随伴的にそのうちに入りくるにすぎない。これは、力や能動性が寒のうちに入りくるのと一般である。冰りつつある水は、それを含む容器の最も強きものを折裂する。しかも寒は本来運動の減少において成立するものなのである。」
「この惰性力こそ、被造物の根源的なる(あらゆる行動に先行する)制限の完全なる写しである。質量の異なる二つの違った物体が、同じ衝動力によって異なった速度で動かされる場合、一方の運動が緩慢である根拠は衝動力にあるのではなくして、物質に本具的にしてその特質をなせる、惰性への性向、すなわち物質の内的制限または不完全にあるのである。」
すなわち、物体の内的我性、物体がよって以って自己の自立性を固持せんとする力、の表現であるということである。
しかし、有限性がただそれだけで悪であるということを否定するのである。
(5)なんとなれば、すべての悪は善を分有しているからである。
(8)悪は有限性自体からくるのではなくして、自己存在にまで高揚された有限性からくる。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳