mitsuhiro yamagiwa

2023-05-21

意志のうちなる意志

テーマ:notebook

(1)

 悪の原理は善の原理に並立せずして従属するというのである。

 後者においては、従属的なるものもあくまで一つの本質的に悪しき原理であり、まさしくそのために、神よりのそれの由来からいって全然不可解であるを免れないのである。

c 自然存在者の我意における両極。欲望及び神との合一。精神。神の精神と人間の精神

 悟性は、この被造物の我意に対して、これを使用しかつ単なる道具としてみずからに従属せしめる普遍意志(Universal wille)として対立する。

 すなわちすべての他の特殊意志の中心としては、根元意志すなわち悟性と一つであり、かくして今や両者から唯一の全体が生ずるのである。

 人間は根底から発現してきたこと(被造物であること)によって、神に対して独立なる一つの原理を含んでいる。

 しかるに、発言された(実在的な)言葉は、光と闇と(母音と子音と)の統一のうちにのみ存する。ところで、一切の物のうちに両原理があるのであるが、しかも根底から揚げられたるものに欠陥があるために、充分な諧調を有しない。それで、人間において初めて、他の一切の物においてはなお抑止されていて不完全である言葉が、充分に発言される。

ニ 悪の可能性

 自然の根底から押し揚げられてきた原理、人間によって以って神より分たれていた原理は、彼のうちの我性であるが、しかしそれは観念的原理との統一によって精神になる。我性はそのものとしては精神である。

 それは、自己自身を完き自由のうちに視るような意志である。もはや自然のうちに創造しつつある普遍意志の道具ではなくして、あらゆる自然の上にまたその外にあるものである。

 我性或いは我意が精神となり、従ってまた自由となるということ、すなわち自然を超えるということは、次のことによってのみで可能なのである。

 我性が精神をもつことによってーーつまり精神が永遠なる愛の精神でない場合にはーー我性は光から分離することができる。(なぜなら、精神は光と闇との上には支配するからである。)換言すれば我意は、それが普遍意志との同一性のうちにおいてのみあるところのものに、特殊意志としてなろうと努めることができる。

 人間の意志は、もろもろの生きた力の紐帯と見なされるべきものである。それで、その意志自身が普遍意志との合一のうちにとどまっている限りは、それらの力もまた神的な節度と平衡とのうちに存するのであるが、我意自身がその座たる中心から離れるや否や、諸力の紐帯もまた離れ、それの代りに単なる特殊意志が支配する。

 疾病は自由の濫用によって自然のうちに生じた不秩序として、悪或いは罪の真の対像(Gegenbild)である。

 つまり、それが発生するのは、深底の静けさのうちに諸力の最奥の紐帯としと統べているべきはずの感応的原理が自己自身を現勢化する場合である。

 すなわち分裂せられた個別的な〔普遍的生を離れた〕生を、再び本質の内的閃光のうちへ回収することによってのみ起こり得る。その再回収から分開(危険)は再び結果するのである。

『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳