mitsuhiro yamagiwa

2022-09-27

モノ ノ アワレ?

テーマ:notebook

私たちの共通の果敢なさ(日本語版のために)

 ーー少なくとも主要な大都市ではどこでも。おそらくいつにもまして、共同体は本質的に無限定に分有されている、ということが明白になっている。このことはさらに二通りに翻訳することができる、すなわち、定冠詞付きの[そのものとして語りうる]共同体というもの(その実体、その一体性)はけっしてありえない、と。あるいはまた、共同体はいつもほかのいくつもの共同体によって作られるのであって、けっして共通の本質によって作られるのではない、というふうに。

 曝される、それは覆いをとられ、剥き出しにされ、他の人びとの好奇心や凝視に委ねられることである。またありうべき危険の前に置かれることである。それは普段私たちが理解しているような意味で意思疎通することではない。

 共同体は限界に曝されている、つまり限界に投げ出されているのであり、そこには「自己」も「集団性」もない。まさしくこの限界のうえであらゆる者が遭遇し、離別するのである。限界はそれゆえ共同体の場である。ひとがみな違った者であるのもこの限界のうえにおいてである。共同体の場は分有の生起する場なのだ。

 この果敢なさがどのようなものなのか、本質的にそれ自身から隔てられ、それ自身のうちで解体し散逸したこの本質とはいったいどのようなものなのか、それを私は知らないしこれからも知ることはないだろう。しかし私は、その果敢なさがあるということを知っている。つまり、私は、この果敢なさによって、またこの果敢なさにもかかわらず、不可能な対話が、不可避なものとして、必然のものとして、可能なものとして、ここにあるのだということを知っている。

 私たちの間に共通なものはたぶんなにもないーーしかし私たちは、双方がそれぞれにそして互いの前で、ひとつの同じ限りない果敢なさ、目分から自分へとそして他者から他者へともたらされるこの知らせの果敢なさ(モノ ノ アワレ?)に曝されているのである。

 いまやあるのは、共同体のなかで剥き出しにされた共同体の不在、私たちの共通の果敢なさ、裸形の分有である。

〈分有〉、存在の複数性の思考ーーあとがきに代えて

 〈近代〉の諸原理はある面からすれば解体の力として作用する。自立した〈個人〉を生み出すというが、それは同時に個々の人間を分断し孤立させることである。

 だが〈共同体〉のテーマを警戒し、それを排除するだけでは何も片付いたことにはならない。近代主義者がいかに〈共同体〉を無視しようとしても、たとえばある言語(日本語なら日本語)を使うかぎり、その言語の共同体(コミュニケーション空間)に属していることは否定できないように、何らかのかたちで帰属が問われるときに、誰もがいくばくかの〈共同性〉を分かちもっていることを、近代主義者とて、否定することはできないからだ。それにもっと一般的に考えてみれば、人間がことばによって生存を組織する生き物である以上、人間はどのみち「共同存在」であるわけだ。ことばは孤立した単独の存在にとっては意味をなさない。ことばが機能するということは、人間がつねに複数(それも少なからぬ数)存在するということを前提にしている。そしてことばによるコミュニケーションなしには、集団の組織化も維持も、その世代的な継承も成り立たない。だからことばによって結ばれた(そして違う言葉を使っていてさえ通訳を試みることでその違いを超えようとする)存在であることを意味している。

 〈自我〉は内面にしか掘り下げられないし、〈主体〉はその根拠さえ自分自身の内にもつ、つまり自己定礎し自己完結するものとみなされ、それが〈自由〉な範型とされてきた。

 ところが、社会がしだいに産業システムによって組織され、人びとが「大衆(マス)化」するようになると、「自由な個人」という意識が一般化する一方で、その「凡庸化」があらわになる。つまり、だれもが「私」の個別性を意識するようになるが、その「私」は実は誰とも区別されたい多数のうちのひとつにすぎず、人びとが自分の個別性を意識すればするほど、その個の無差別性に気づかざるをえないという状況が生まれてくる。

 個別主体の絶対化が、「私」のかぎりない凡庸化を招来する。それが産業社会を背景にした近代的意識のパラドクスだったと言ってもよい。

 ひとは日々他の人たちと同じ新聞を読み、同じ「公共の」交通機関を利用する。しかし人びとの間に絆はなく、ただ空疎な「お喋り」だけが共有されお互いを結びつけている。

 ハイデガーはそうした現存在のあり方を「頽落」と規定し、ふと兆す「不安」を「気晴らし」のなかでやり過ごすのではなく、「不安」をこそ入り口として「無」(存在の無根拠、死の避けがたさ)に直面することで、現存在が「本来性」に目覚めるべきことを存在論的な必然として語り出そうとした。

 ナンシーが問うのは「共同体への要請」を生み出す存在の根源的なあり方である。

 個人は貧しく限定されており、その不足を補うために共同体はある(求められる)。ひとりでは意味がないが、その無意味な生も共同の価値によって意味あるものになる。そして死を運命づけられた無に帰る個は、共同体に身を捧げることで永遠の生をうるのだと。一方共同体は、個人の生に意味を与えることで、共同体への犠牲と献身と要求し、個人の死を回収して、成員の死を糧として生き続ける。

 必要なのは、〈共同性〉が世俗的近代の世界でなぜこのように機能してしまうのかを解き明かすことであり、そこで何が禍々しい結果を生み出す錯誤を招来しているのかを、この〈共同性〉の論理そのものの深みにまで降り立って検討することだ。それだけが、近代にこのように機能してきた〈共同体〉の論理を分解することを可能にするだろう。

 〈死〉はたしかに人間の〈有限性〉を画している。だが〈有限性〉というのは、ひとつの存在がそこで尽きるという外的な規定を意味するだけではない。それだけではなく、それは人間が自己完結できないという内的な不可能性をも意味している。「生む」という動詞が他動詞であるとしても、「生まれる」という表現はすでに受動形であり(フランス語でも英語でも、「生まれる」は、そうとは意識されないまま受け身で表現される)、ひとは独力で生まれるわけではない。それと同じように、ひとはまた独力で死ぬこともできない。

 ひとが主体として為すことのできるのは誰か(自分も含めて)を「殺す」こと、あるいは誰かに「死を与える」ことだ。だが「死ぬ」ことはできない。というのは、〈死〉は「歩く」とか「歌う」といった行為とは違って主体が能動的になしうる行為ではなく、あらゆる行為が不可能になる状態への移行だからだ。主体は能動的に消滅することはできない。「眠る」という行為にも似て、それは能動性が麻痺し、引き込まれるように闇に陥ることなのだ。

 〈私〉は〈死〉を近未来形で語ることはできるが、それをみずから果たした行為のように完了したものとして語ることはできない。だから〈死〉は〈私〉の可能性に属していない。

 その意味で、文字どおりに「私は死ぬことができない」のだ。

 だがナンシーは、〈個〉が帰ってゆくところとして〈共同体〉をあらかじめ存在する別の存在だとは考えない。〈死〉そのものが、すでに独りでは起こらない〈共同の〉出来事だと言うのだ。

 〈死〉は誰にも属さない。この、誰にも属さない、それゆえ行為ではない出来事は、独りでは起こらない。

 このように〈死〉はひとりでは完結せず、すでに他者の存在を要請する出来事なのである。あるいは存在の複数性を前提とする出来事なのである。そうでなければ〈死〉は、人間にとって意味ある出来事にはならない。さらに言えば、〈死〉とは、それが起こるために複数の人間にリレーされることが必要であるような出来事、人と人とのあいだに、まさに〈あいだ〉として起こる出来事なのである。ただしこの〈あいだ〉に距離はない。それは直の接触でありながら、乗りこえることも解消することもけっしてできない分離であり、切断でさえある。

 よく言われるように、人間は自分の〈死〉を経験することはできず、経験しうるのは他者の〈死〉だけである。

 〈死〉という出来事がこの限界を刻むのだとしても、〈死〉の切断によるこの決定的な分離に距離はなく、彼(彼女)がひとりでは死ねないその限界が、そのまま〈私〉が彼(彼女)に届きえないその限界でもあるのだ。それが人間の〈有限性〉を画しているのだとすれば、その〈有限性〉は一人ひとりの存在を決定的に分離すると同時に、無媒介に結びつけてもいる。その関係あるいは出来事をナンシーは〈分割=分有[partage]〉と呼ぶ。

 ハイデガーは「存在するもの」と「存在すること」とを区別し、その後者こそが存在論の課題であることを示して哲学的思考を一新した。

 〈分有〉ということは、何かを、あるいは〈有〉を、すなわち〈存在〉を分かち合うことではない。分かつということが〈存在する〉ということなのであり、「存在する」とはつねに「共に」不可分の複数的な出来事なのだ。

 神話は今ではかつての〈共同体〉定礎の威力を失って、〈共同体〉が生み出し分かち合わされた物語として、つまりは共同で維持された〈フィクション〉として理解され、そのようなものとして〈物語〉のひとつの範疇であるにすきない。近代の合理主義の世界は、世俗化によって宗教的権威を相対化するとともに、〈神話〉の機能を途絶させることになったのだ。

 あるいは近代における「共同体への要請」が、「不在」を埋めるべく新たな〈神話〉の賦活を試みる。その一方で、「神話の途絶」と平行して生じるのは、〈定礎〉として機能しない〈物語〉、あるいは〈フィクション〉の、広く言えば〈文学〉の一般化である。

 〈共存在〉とは、〈存在すること〉のひとつの局面なのではなく、その根本的様態であり、〈と共に〉あるいは〈共同体〉しか〈存在する〉という事態はありえない。そしてその〈と共に〉が抹消されるとき、存在者たちは〈分割=分有〉の共存在を失って全体主義的〈内在〉のうちに溶解することになる。 

『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』ジャン=リュック・ナンシー/著、西谷修、安原伸一朗/訳より抜粋し流用。