mitsuhiro yamagiwa

  第一三節 印象があらゆる過去把持に先立つことの必然性、過去把持の明証


    事実、人間の意識はまず知覚を所有してこそ、初めて記憶を、第一次記憶をも、もちうるであろう。

  だがわれわれはそういう考え方に反対して「過去把持にはそれに対応する知覚または根元的印象が先行する」と説き、そのアプリオリな必然性を主張する。

  まず最初われわれは「位相は単に位相としてのみ考えられるのであって、延長の可能性はない」という考えを固執すべきであろう。いまの位相は一連の過去把持の限界としてのみ考えられ、またそれぞれの過去把持的位相それ自身もただそのような一個の連続体の一点としてのみ、しかも時間意識のそれぞれの今に対応して、考えられうるのである。

  つまり、一つの今に帰属する一連の過去把持はそれ自身一個の限界であり、必然的に変遷するのである。すなわち、記憶されている事柄は《次第に過去へ沈んでゆく》のであり、しかもそれだけではなくーー記憶されている事柄は必ずある沈んでいるものであり、必ず明証的に想起されるものである。そしてこの想起が再び与えられる今へそれを連れもどすのである。

  「もはや存在しない非今を今(すなわちいま眼前に浮かぶ記憶心像)と比較することは不可能であるから、いったいどのようにして私は非今のことをいま知りうるのであろうか」というような議論は根本的に倒錯している。

  記憶ないし過去把持は心像意識ではなく、それとは全く異なるものである。記憶されている事柄は無論いまは存在していないーーそうでなければそれは既在したものではなく、現在するものであろう。またそれはいま与えられているものとして記憶(過去把持)に内在するのでもない。

  もはや知覚されてはおらず、単に過去把持的にのみ意識されているものをそれ以外の何かと比較することは全く無意味である。私は知覚によって今の存在を観取し、広がりのある知覚……知覚は現にそのように構成されているのである……によって持続する存在の観取するのであるが、それと同じように私は、記憶が第一次記憶である限り、記憶によって過去の観取するのである。過去のものは記憶の中に与えられているのであり、したがって過去のものの所与性が記憶である。

  《過去》と《今》は相互に排斥しあうのである。確かに同一のものが今でもあり、また過去でもありうるが、しかしそれはそのものが今と過去の間を持続したことによってのみ可能なのである。
『内的時間意識の現象学』エドムント・フッサール/著、立松弘孝/訳より抜粋し引用