mitsuhiro yamagiwa

第三部 政治

 わたしたちは人間ならざるものによる制度から自由であったことなど一度もない、と地球の活動によって否応なしに自覚させられた今日、歴史や行為主体性といった概念をどのように考えるべきなのだろうか。

 こうした展開は、もちろん、純粋に美学的な考察から生じたわけではなかった。それらは政治とりわけ冷戦期の政治からも影響をうけていたーー

 しかし、芸術がたどる軌道は、冷戦よりもずっと以前にすでに定められていた。二〇世紀を通じて、芸術はどんどん自己言及的になるような道すじを歩んでいたのだ。「二〇世紀芸術は」ーーロジャー・シャタックは一九六八年に書いているーー「意味や真理が有する美を外界の現実に求めるのではなく、自己自身を探索する傾向が強く、その結果として作品、世界、鑑賞者、作者の関係もこれまでとは違ったものになった」。こうして、あらゆる種類の芸術的企図の中心に人間の意識や行為主体性、そしてアイデンティティが位置付けられるようになったのだ。

 〔西洋的〕近代性を受容するなかで、アジアの作家や芸術家たちはその地域の文学や芸術、建築などの構造を根本的に変えてしまうような断絶を生みだした。このことは、他の地域と同様にアジアにおいても、抽象的なものや形式的なものが、具象的なものや図像的なものにたいして優勢となることを意味していた。

 ここでは他所と同様に、自由が、物質的な生という窮屈なものを「超越する」方法、すなわち人間の心、精神、感情、意識、内面性という新たな領域を探求する方法とみなされるようになった。これにより自由は、人間が心や身体や欲望のうちにまるごと所有するもの、計算可能なものとなったのだ。

 「その美学の達成がより徹底し明晰になるほど、それが描き出す世界は住みがたくなる」ということも、いまとなってはあきらかだ。

 そして今日、わたしたちが否応なく他なる眼による監視・審判にさらされているという事実に目覚め、視点をひっくりかえしてその時代をふりかえるならば、なにが見えてくるだろうか。

 客観的な完璧さが文学を通して、つまり一般的な社会の運命として提示されることで、人びとは思い込みが打ち消されることはあってもそれを埋め合わせるものを見いだすことはできない。つまり、「その美学の達成がより徹底し明晰になるほど、それが描き出す世界は住みがたくなる」のだ。 

 ブリュノ・ラトゥールが正しいならば、近代人であることとは時間を不可逆なものだと思うことであり、近代を革命的争いによってたえまなく前進していく進歩とみなすことである。そして近代人にとっての恐怖とは、まさに、置き去りにされること、つまり「後を行く」ことへの怖れによって喚起されるものなのだ。

 わたしたちは、どんどんスピードを上げながら目の前を通り過ぎていくたくさんの「主義」ーー構造主義、ポストモダニズム、ポストコロニアリズムーを意識せざるをえなかったわけだ。

 不可逆的な時間の相において、革新や想像力の自由な追求によって諸芸術は永久に前進し続けるというヴィジョン自体が、のっぴきならない断罪をうけることになりはしないだろうか。

二 

 すでに大規模災害の発生件数が増えているのみならず、大惨死の緩慢な進行ーー静かに、だが容赦なく人びとの暮らしを破壊し、社会的政治的な対立をあおるーーというかたちで、気候変動の衝撃はすでに日々感じとられているはずであるにもかかわらず、どの国においても気候変動は重要な政治問題になってこなかった。代わりに、政治的エネルギーがますます集中的に没入されていったのは、宗教、カースト、民族性、言語、ジェンダー平等にまつわる権利といった、なんらかの仕方でアイデンティティにかかわるような諸問題だったのだ。

 〔気候変動がもたらす危機的状況の回避といった〕万民に共通する利害と〔アイデンティティ・ポリティクスのような〕公共圏における個別的関心事とが乖離していく先には、政治それ自体の性質の変化がある。政治的なるものは、もはや公共の福祉、すなわち「国民政治」や集団的意志決定にかかわるものではなくなっている。それはなにか別のものにかかわるのだ。

 わたしたちは、むしろ世界がそうありうるかもしれない状態を想像すべきなのだ。しかし、人新世をめぐる他の多くの〈不気味〉なことがらとおなじように、この難題がわたしたちの目前にあらわれたのは人新世に応答するのにもっとも適した想像の形式ーーフィクションーーが根本的にことなる方向へと舵を切ったまさにその時であったのだ。

 公共圏が大統領選挙からネット署名に至るまであらゆる次元でこれまで以上にパフォーマンス旺盛になる一方で、その公共圏が実際の権力行使に影響をおよぼす能力はますます弱められていったのだ。

気候変動をめぐる公共的な政治は、それ自体が、〈モラル=政治的なるもの〉がいかにして〔活動の〕無力化へとつながるのかを説明する一例となっている。

 もし気候変動の危機が、それが個人の良心にたいして提起する問題の観点からもっぱら見られるならば、誠実さや一貫性は不可避に政治的立場を判断するための試金石となるだろうからだ。そうすると、気候変動問題にたずさわる活動家個々人の生活様式の選択をあげづらい、かれらの人格的な偽善を責めるためな口実が「否定脈」の連中にあたえられることになってしまう。問題がこのような枠にはめられると、信ぴょう性や犠牲的行為が焦点となり、アル・ゴアの自宅にいつも白熱電球が使われているからとか、デモ参加者がとおった交通手段を用いて会場にやってきたかといったことがらにばかり注意がむけられることになるだろう。

 ガーンディーは、モラルの誠実さにもとづく政治のまさにお手本だったのだ。

 かれはせいぜい、すべてを食い尽す炭素集約型経済の方へがむしゃらに突進することをほんのすこし遅らせることができたにすぎない。

 代わりにしなければならないのは、想像力の範囲を個人の問題へと落としこんでしまうような、わたしたちが陥っている罠から抜けだす道を見いだすことなのだ。

 のちの世代が〈大いなる錯乱〉をふりかえるとき、かれらはまちがいなく、この時代の指導者や政治家たちが気候変動に取り組むのに失敗したと責めることだろう。だが、かれらはまた、芸術家や作家たちのことも同様に咎めるのではないだろうかーーさまざまな可能性を想像することは、政治家や官僚たちの仕事ではないのだから。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳