mitsuhiro yamagiwa

 とはいえ、帝国主義がアジアの工業化への道のりをは阻む唯一の障害ではなかった。この経済モデルはまた、多様で強力な土着の抵抗にも遭遇していた。

 「神は、インドが西洋のやりかたをまねて工業至上主義に頼ることを禁じた。もし三億人の国民すべてが似たような経済搾取の方法を採れば、バッタの大群が農地を更地にするように世界は丸裸にされてしまうだろう」。マハトマ・ガンディー

 この引用は、直截に問題の核心、つまり数の問題に迫っているために印象的だ。

 すなわち、普遍主義を掲げる工業文明の諸前提はでっちあげであるということ。

 実際のところ、現在インドを支配している政治構造の中核をのちに担うことになる組織にかつて所属していたメンバーの手によってガーンディーが暗殺された理由はここにある。

 この連立政権〔インド人民党を中核とするモディ連立政権〕はまさにガンディーが放棄したことーーすなわち、終わりなき産業成長ーーを約束することによって政権を獲得したのだった。

 工業主義と消費主義は道教、儒教そして仏教の伝統の内部から力強い抵抗に遭った。

 日本は別の点でも西洋とはことなっていた。つまり、自然からの制約を自覚することが公的なイデオロギーの一部となり、「自然こそが、日本人にとっての自覚である」と主張されたのだった。

 中国において、数が重要であるという認識はやがて、最近になって終了した「ひとりっ子政策」につながった。

 この政策がきわめて厳しく抑圧的だったことは疑いようがないが、人新世という逆の観点から眺めてみれば非常に重大な意義をもつ緩和策だったと評価される日がいつかやって来るかもしれない。

 気候危機は西洋型の炭素経済の発展によって引き起こされたことは疑いえないが、その一方で、この問題がさまざまにことなる展開をみせていたかもしれないということもまた事実である。したがって、気候危機はまったくもって遠い存在である〈他者〉によって生みだされた問題だとばかりは言っていられないのである。

 チャクラバルティらが指摘してきたように、人間が引き起こした気候変動は、まさに種として人類が存在することの意図せざる帰結なのである。地球温暖化は、ことなる集団の人びとがそれぞれかなりことなったやり方で助長してきたものではあるが、究極的には人類がながい時間をかけて行ってきた活動総体の産物である。

 今日の変動する気候にまつわる諸事情は、人類がながい時間をかけて行ってきた活動の総体を表象しているという点で、歴史の終着点の表象ともなっている。なぜならもしわたしたちの過去の全部が現在のうちにふくまれるとすれば、時間性それ自体の重要性は奪い去られてしまうからだ。

 つまりこの時代の気候変動にともなう諸事象は、人類の歴史全体の抽出物なのだ。それらの事象は、わたしたち人類がながい時間をかけて行ってきたことのすべてを物語っているのである。

*和辻哲郎『風土 人間学的考察』

 同書において和辻は、人間が人間自身を、そして社会共同体としてわたしたち自身を見いだす仕方として、土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称であるところの「風土」を据える。ここでの風土は、たとえば「空気が「爽やかさ」の有り方を持つことは取りも直さず我々自身が爽やかであることなのである」と述べられるように、単なる自然環境のように人間の外部に客体として存在するのではなく、それを通してわたしたち自身の「外に出ている」〔ex-sistere)有り方を了解するものだ。

 したがって、そこではさまざまな衆生の現在の姿が過去の生をもれなくふくみこんでいるという意味で、人間に限定した歴史的発展をたどることは意味をなさないのである。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳