第六章 生ある未来(と軽くなった死者のはかり知れない重さ)
私たちは権力を、外部から主体に圧力をかけるもの、従属化し、下位に置き、より低い序列に追いやるものと考えることに慣れている。これはたしかに、権力が行うことの一部を正しく記述している。しかし…もし私たちが権力を、主体を形成するものであり、主体の存在の条件そのもの…と理解するなら、そのとき権力とは、私たちが対立するものであるのみならず、強い意味で、私たちが自分の存在のために依存するもの、私たちが現在の自分の存在の中に隠遁し、保持しているもののことである。 ジュディス・バトラー
ある者が誰でありうるかは、彼ではない全ての者に密接に関係する。つまり、私たちを〈私たち〉である者にするこれら多くの他者に対して、私たちは私たち自身を永遠に与え続け、またその恩を受けている。
この森の霊的な主たちの領域に注意を向けることで、連続性が何を意味しうるのかを、そして連続性を脅かすものと向きあう最良の方法をより良く理解できるからである。つまりは、連続性や成長、「繁栄」についてこの森の精霊たちが教えてくれるものを注意して聞くことによって、生ある未来に生きるより良い方法を〈私たち〉がいかに見出すのかを考える別の道のりを開く余地が、私たちのもとに残される。
常に既にルナである
彼らは形式から脱落し、時間の中へと入っていった者たちなのである。
この絶えず変化する自己、その過去と潜在的な未来の例化とも連続する者は、生命、繁栄として諸自己の生態学にとって重要な何かを指差している。
名前
私たちは通常、名詞の位置を占める単語として代名詞のことを考える。しかし、パースが示唆するのは、私たちがその関係をひっくり返してしまっているということである。代名詞は、名詞の代わりをするのではない。むしろ、物事を指差すことで「それらはもっとも直接的に可能な仕方で物事を指示する」。名詞は間接的にその参照項に関係づけられている。それゆえに、名詞は自らの意味を表すためにこういった指差的関係に最終的には依存する。このことによって、パースは「名詞はある代名詞の不完全な代替物」であり、その逆ではないと結論づけるに至ったのである。
名詞として「ルナ」は「ある代名詞の不完全な代替物」である。その不完全さによって、その名詞は、それがひとつの〈私たち〉となるときに関係する全ての他者の痕跡を伝える。
ひとつの〈私〉は常に、ある意味では不可視である。対照的に、他者ーー対象化された彼なるもの、彼女なるもの、それなるものーーは、見られ、名づけられることが可能である。
ヴィヴェイロス・デ・カストロが見出したように、実際には名づけは他者のために保持されている。
名づけは対象化する、そして他者に対してーー〈それら〉に対してーーなされることである。
主(アモ)
主=使徒に導かれることには、分離や疎外と混ざり合う一定の親密さがある。
自己を分布させ、そして、自己と連綿と続く例化から引き離す、分裂という苦悩を記しているのである。
投影的であるのは、「過去の諸々の〈私〉」を身体化することで、話者は彼の自己の「連続性」ーーより一般的である諸自己の「創発的」な系統の一部となった自己ーーを具体化するようになるためである。彼の〈私〉はひとつの(私たち〉になる。
アムは、この「投影的な(私〉」について何か重要性なことをとらえているといえないだろうか。それは、連続性のうちにある自己ーー「規定されないう可能性」を備えた、ある〈私たち〉ーーを指示する。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳