mitsuhiro yamagiwa

2023-09-13

今ここにないもの

テーマ:notebook

未来にあること

 人間であれ非人間であれ、単純なものであれ複雑なものであれ、自己は記号論的過程の中継点である。それは、記号過程の帰結であり、かつ、未来の自己として結実するような新しい記号解釈の出発点でもある。

 ゆえに全ての記号過程は、未来を創造する。

 現在に影響を与えるのは過去だけではない。

 「推量」として、記号はありえる未来を再=現前し、こうした媒介を通して、現在に影響を与えるために未来を持ちこむのである。未来が現在に与える影響に、それ自体の実在性がある。そして、それが、自己を世界における独自な存在とする。

 未来にあることは「生ある」ことであり、「可塑的」である。全ての記号過程は、成長し、生ある限り、未来をつくり出す。

 要するに、ひとつひとつのイコンやインデックスとは違って、ひとつの象徴がまさに象徴であることは、それを解釈するようになる、必ずしも現存しないが実在する記号の大群の創発に依存する。象徴は未来に二重に依存している。

 主たちの霊的な領域は、生命そのものよりも「さらに」未来にある。精霊の領域は、この生ある未来の論理を増幅させ、一般化する。さらに日常におけるひとつの政治的かつ実在的な問題に影響を与える。すなわち、生存である。

軽くなった死者のはかり知れない重さ

 予兆も類似した論理を露わにする。

 予言されているのは死ではなく、他者の死である。実際、発見者の死が予知されることは決してない。

 耐えがたいこととは、生者が他者の死を経験することである。なぜなら、それは触れることができるものだからである。「生命の糸は第三である」が、「それを断ち切る運命」は、「その第二」であるとパースは記している。

 死は外側からのみ経験されうる。他者のみが生命の意図をたち切ることができる。

 可視性が対象化ーー第二性ーーを要求し、第二性は生ある自己であることの重要な何かを見逃しているという意味において、自己は常にそれ自身にとって部分的に不可視である。〈私〉が〈私〉であるのは、形式の内側にあるーーつまり、それ自身のいかなる特定の例化をも超え出る一般的な存在様態を分かちあうーーからである。

 全ての記号には、今ここにないものとの関係が含まれる。イコンは、その存在にとって根本的な仕方でこのことを行っている。

 私たちは一般的にイコンを類似の観点から考えるが、イコン性は実際のところ気づかれなかったもの(例えば、私たちが初めはナナフシと小枝の違いに気づかないこと)の産物である。対照的に、インデックスは、現在の状況における変化ーー私たちが注意を払うべき何か別のものがあること(もうひとつのたぐいの不在)ーーを指差する。象徴はこれらの特徴を取りこみはするが、特別な方法で行う。つまり、象徴は、ほかの象徴を意味あるものとする、いくつもの象徴からなる不在の体系に対する関係を経由して表象する。

 本質的に記号論的であるがために、生命には、不在に対しても近しいつながりがある。

 アマゾニア的な概念を使えば、系統=にある=生ある=有機体、つまり、〈私〉=の=連続性=にある=生ある=有機体であるものとは、そうでないものから産出される。それは、生き残らなかった多くの不在の系統と密接に関わっており、そうした系統は、その周りの世界に適した形式を明らかにするために選別された。生者は、ある意味では、小枝に見間違えられたナナフシのように、気づかれなかったものたちである。自らではない者との関係のおかげで、潜勢的に形式にとどまり続け、そして時間の外部であり続けるものたちである。ここで論理の転換が起きていることに注意しておこう。焦点は、今ここにないものにある。つまり、軽くなった死者のはかり知れない「重さ」である(この撞着表現はこの主張の反直観的な性質の何かをとらえているだろう)。

 〈私〉なるものは形式の中にあり、歴史の外部にある。〈私〉なるものに何事も起こらないのはこのためである。天国とは形式の継続性である。地獄とは、歴史である。他者に起こることである。天国は、人々が時間にさらされることのない領域である。彼らは決して歳をとらない。彼らは、そこで決して死ぬことがない。諸々の(それ〉のみが時間の中にありうる。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳