それ以後、いま、それ以前
人間存在の経過が外から調査されるとき、人間存在のあらゆる配慮とそこから派生する諸行動とは必然的に、日付を付けられているか、もしくは日付を付けられうるということがたやすく気づかれる。 それによって、われわれの行動の一つ一つが、われわれが「以後」「今」「以前」と呼ぶであろう三つの目印との関連において秩序立てられているということである。私がどんな行動をしようとも、その行動がそれ以外の二つの行動のあいだに組み込まれることは避けがたく、それらの二つの行動のうちの一つは「以前に」起こった行動であり、もう一つは「以後に」起こる行動である。またここで考察されている行動は、「以前」を「以後」から切り離すその合間に位置づけられており、この合間が今である。このような日付を含んでいない(というのも、この秩序はたいてい言表されないので)、適切な時間規則に従って見分けられない、いかなる人間的行動も存在しない。
それはすなわち、われわれのどんな活動も「以前」と「今」と「以後」とに応じて客観的に秩序立てられうるという法則である。
第二のテーゼも同様に明白である。それはすなわち、これら三つの「日付」のなかで「今」が明らかな特権を享受しているというテーゼである。まさに「今」との関連において、それ以外の二つの日付は語り出されている。
過去は本質的にもうない「今」であり、未来はまだない「今」である。
公共的な世界時間はつねにまず第一に、「…する時間」や「…しない時間」[…のための時間]だからである。
考えられた行動の以後に、生じる行動は、実際には未来である。
それとは逆に、考えられた行動がそのあとに続いて起こる行動は、以前に生じており、それゆえ実際には過去である。
『マルティン・ハイデガーの哲学』アルフォス・ド・ヴァーレンス/著、峰尾公也/訳より抜粋し引用。