mitsuhiro yamagiwa

2022-08-05

逃げゆく否定

テーマ:notebook

第 4 章 一つの哲学的使命ーーペソアの同時代人であること

 真なるものの永遠性はうんざりする虚構であり、各々の存在者を、それら自らに固有の力強い差異化によって可能とするものから分け隔ててしまうのである。

 様々な観念性が実質的に存在し、そしてあらゆる知の原則に知的直観が必要であるというプラトン的想定は純粋な無-意味なのである。

 というのも、一般的な「ある」は、感覚的に与えられたもの(経験主義的次元)と、これを、言語の構造としての主体なき真なる超越論的な操作子によって組織化すること(論理的次元)によってのみ構成されるからである。

 ペソアは、否定をほぼ迷路のように使用することの発明者であり、これが詩句に沿って配置されるので、我々は否定された言葉を確信をもって固定することが決してできないのである。

 これは、詩のなかに、肯定と否定のあいだの絶え間ない両犠牲を、あるいはむしろ、肯定的なためらいとしてはっきりと認識できるものを浸透させるのである。これは最終的に、存在のうちにある潜勢力の最も輝かしい顕示が、主体による最も執拗な撤回によって侵食されることを可能にする。ペソアはこのようにして非-矛盾の原則を詩的に転覆させようとするのだ。

述語との不分離性

 「事物というのは、解釈の余地のないものである」。このことはあらゆる異名性において一般化される。つまり、一篇の詩とは操作による物質的な一つのネットワークなのであり、決して解釈されるべきものではないのである。

 しばしば起きることとして、文が二度目にか読まれるとき再構築される必要があるのだが、それは〈観念〉が見せかけのイメージを横切り、超越するためなのである。

 (観念〉は事物から切り離せない。それは超越的ではない。

 感覚的なものと〈観念〉が共に存在することを認めること、しかし〈一者〉の超越性に譲るものは何もないのだと。多様な単独性しかない、だが、経験主義に似たようなものは何も引き出すことはないと思考すること。

 したがって、私たちがこの詩人を読み、この詩人を断ち切ることができないのは、私たちがそこに、いまだどのように従えばいいのか分からない一つの命令を発見するからである。
それは、プラトンと反プラトンのあいだに、詩人が私たちのために開いてくれた間隔のなかに、多、虚空、無限に関する真の哲学が準備されている、そんな道を辿れという命令である。神々が決定的に離れてしまったこの世界の真価を肯定的に認める哲学である。

『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。