mitsuhiro yamagiwa

2023-04-17

思考と行為の差異

テーマ:notebook

1 大衆

 全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見い出し自分たちにふささわしいと考えた唯一の組織形態である。

「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験し、ともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などにみずからを構成することをしない人々の集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。

 全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、特にヨーロッパ的な政党制度の信奉者が後生大事にしていた二つの錯覚の終わりを意味した。その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心をもつ市民でもあり、全員がかならずいずれかの政党に組織されるというところまでは行かなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくともその政党によって自分も代表されていると感じている、という錯覚である。

全体主義運動が民主主義的な自由を葬るためにほかならぬその自由を利用したとは、くり返し言われてきたことである。

これら個人を結び合わせた唯一のものは、全員に共通の一つの洞察だった。

 共同の世界を失うことによって、大衆化した個人は一切の不安や気遣いの源泉を失ってしまったーー不安や気遣いはこの共同の世界における人間生活を煩わせるだけでなく、導き調整する役目を果たしているのである。

 大衆社会の中の個人の主たる特徴は残酷さでも愚かさでも無教養でもなく、他人との繋がりの喪失と根無し草的性格である。

 全体主義の指導者は実際のところ、彼に指導される大衆の代表にすぎない。

 代表としての彼はいつでも取り替えがきく。彼なしには「形のない」ものでしかない大衆が彼に依存しているのとまったく同じく、彼のほうでも彼がみずからの存在によって「形」を与えている大衆の「意志」に依存している。指導者なしには大衆はただの群であり、大衆なしには指導者は無である。

 ヒトラーは「思考が存在する(のもまた)……命令の授与か遂行の中においてのみである」と考えていた。こうして彼は理論的にも明確な形で、支配で被支配の区別と同様に思考と行為の差異をも廃棄してしまったのである。

『新版 全体の主義の起源 3』 ハンナ・アーレント/著、大久保和郎・大島かおり/訳