mitsuhiro yamagiwa

2023-04-19

没我性と匿名性

テーマ:notebook

2 モッブとエリートの一時的同盟

 エリートは、階級制度の崩壊が大衆化された個人を生み出すようになる以前に、無理もない理由からすでに社会と絶縁しており、またブルジョワジー支配が早くから生み出した廃棄物であるモッブはブルジョワジーに属する犯罪人世界だったからして、この両者はともに長い間社会の埒外にあって大衆を理解し組織するだげの能力を身につけていた。その際、理解のほうはエリートの仕事、指導のほうはモッブの担当となった。

 彼らのほとんどが、正常な職業では落伍し、性犯罪者、麻薬常習者、あるいは性的倒錯者として正常な私生活にも適応できない人間であるがゆえに政治家を志したにすぎないという事実ーー伝統的な政党の指導者たちは、大衆に対して絶大な魅力のもととなった。この事実はむしろ次のことを証明するものと思われたのである。すなわち、彼らにこそ時代の大衆の運命が具現されており、運動への献身や、受難者との連帯や、市民社会に対する侮辱を断言する彼らの言葉は嘘偽りではない、彼らはこの社会での栄達を望もうとはせず、すでにみずから退路を断って進む覚悟なのだ、と。

 彼らはアラビアのロレンスの「自分自身の自己を失い」たいという切望を自分たちの経験として知っていたし、一切の既成の「価値」に対する激しい嫌悪も、一切の既成の諸勢力に対する侮辱も身をもって味わっていた。彼らは第一次世界大戦前の「黄金の安定期」をふり返るとき、自分たちがいかにその時代を憎んでいたかをまざまざと想い起こすことができた。

 彼らがみずから精神的父祖として選んだ人々とは明確に異なり、人為的な安泰と、みせかけだけの文化と、看板だけに成り下がった「価値」のこの偽りの世界全体が廃墟と化すのを見たいという切望以外には、ほとんど何の願いも抱いていなかった。

 ともかく同情というものは、その対象となる特定の人間に厳として結びついているということがなくなると、悲惨それ自体とまったく同じに人間の尊厳を確実に破壊するものだと思われる。

 大衆化した人間に特有の没我性は、この人々にあっては匿名性への憧れ、純粋な一機能としての歯車になること、いわゆる〈より大なる全体〉に没入することへの憧れとしてあらわれていたーーということはつまり、自分の偽りのアイデンティティを自分が社会の中で演ずべき役割や、与えられた機能とともに消してしまうことに役立つような変化ならば、どんな変化でもいいというのである。戦争は、そこでは個人間の一切の差異が消え失せる最も壮大な大衆行動として経験されたため、今や苦しみすらーー伝統的に苦しみとは、各個人を他とは異なった交換のきかない運命が襲うことによって、人間を相互に区別するものであったのだがーー「集団的苦しみ」として「歴史進歩の手段」てされてしまった。

 逆説的なことに、第一次世界大戦はヨーロッパの真にナショナルな感情をほぼ完全に消し去っていたのである。

 すでにバクーニンは「わたしはわたしではなくわれわれでありたい」と告白しているし、ネチャーエフは「呪われた者」ーー「個人的な関心を持たず、感情もなく、束縛するものもなく財産もなく、自分自身の名前すら持たない(者)」ーーの福音を説いていた。

 一般に認められた基準の一切を公然とシニカルに斥ける悪趣味ぶりには、最悪のことをはっきり認める覚悟と、あらやる気取りに対する侮辱とが示されていたが、モッブの確信と態度ーーそれは本当のところは偽善の下に潜むブルジョワジーの確信と態度にすぎなかったのだがーーの中に、ブルジョワジーを真に憎み体面の社会をみずから捨てた人々は、偽善とお体裁のないことだけを見て、その真の内容のほうには注意していなかったのである。

 エリートはこの社会がいかに脆いかを認識せず、自分たちは依然として二重道徳の偽善に満ちた薄明の中に生きていると思い込んでいたからこそ、残虐さの仮面があれほど誘惑したのだった。

 ブルジョワ的偽善の暴露を喜んだのは決してエリートばかりではなく、まず第一にブルジョワ社会それ自体だったのだ。この社会は「美徳に捧げる悪徳の敬意」である偽善にうんざりして、この不用になった重荷をとうに投げ捨てるつもりになっていたからである。

 真の問題は、一方では社会的・経済的競争によって、他方では支配階級の階級利害によって、公的・政治的な領域が絶えず狭められその存在を脅かされているということだった。このような関係において見たとき、個々の利益を足し合わせれば公益という奇跡が生まれると考えた自由主義の政治理論は、その実は私的利益こそ公益すなわち「全体」の犠牲において貫徹さるべきだという無情さを合理化するための、見えすいた「上部構造」だと思われたのである。

 モッブとエリートのこの不穏な同盟、彼らの意外な行動や努力の奇妙な一致は、これらの階層が国民国家の階級社会の崩壊の中でまず一番に政治的・社会的故郷を失ったという事情にその起源を持っていた。

 誤ることなく機能する支配と破壊の装置に対しては、均制化された俗物ばかりの大衆がいずれにせよはるかに信頼に足る人的資源を供給してくれたのである。

 俗物とはすなわち孤立したブルジョワ、みずからの階級から見捨てられたブルジョワなのである。

 組織立った均制化をわずか数年で果たした後、ナチは正当にもそう言明できたのであるーー「ドイツにおいて今なお私生活に生きる唯一の人間は、眠っている者だけである」。

 現代の大衆指導者が精神的活動の高度な形式をすべて徹底的に抑圧するのは、理解できないものに反撥するという自然な感情よりもっと深い原因から出ている。全体的支配は完全には予見し得ないような行為を認めることができないから、どの生活領域にも自由なイニシアティヴを許せないのである。それゆえに、権力を手中に収めた全体主義運動は、たとえ運動に共感を寄せる者であろうと才能と天分に恵まれた人々をすべて容赦なく追い払って、その後に山師と馬鹿を据えざるを得ない。

『新版 全体の主義の起源 3』 ハンナ・アーレント/著、大久保和郎・大島かおり/訳