mitsuhiro yamagiwa

訳者あとがき

 真実と善、技術と道徳が絡み合う不確実な世界を、私たちは「疑い」とともに生きていかなけれはばならない。

 モルは、ローカルで雑多な実践のなかに浮かび上がってくる何らかのまとまりやスタイルのことを「ロジック」と呼んでいる。実践のなかのある種の一貫性は、「必ずしもロジックにかかわる人たちにとって自明ではないし、言語化された形で利用可能ですらない」。モルは、病気とともに生きる人びと、つまりは能動的な患者である私たちみんなが、さまざまな場所で活用できるように、「ケアのロジック」を言語化することを試みた。

『多としての身体』で、モルは、真実のかわりに(複数の)善が世界の表舞台に現れたと述べていた。

 事実を成り立たせている技術的な詳細(たとえば病気の診断や実験方法や医療制度)は、さまざまな価値にもとづいた実践の積み重なりなのである。

選択のロジックの二つのヴァージョンは、近代西洋における公と私の領域に対応している。二つの領域を行き来するのは、自律した個人である。個人は、別の個人とは切り離されたうえで、固有の意志や欲望を持ち、そのまとまりが継続するものだとされる。だからこそ、ある瞬間にある選択をしたことの帰結は、個人の責任とされる。
 リベラルな社会における個人は、公私の領域に応じて、市民や消費者になる。

 リベラルな社会においては、公的な領域でも私的な領域でも、個人が自由に「選択する」ことに至上の価値が与えられている。このことをモルは「道徳(Morality)」という言葉で表現している。このことをモルは「道徳(Morality)」という言葉で表現している。

 これには、moralityの訳語としての「道徳」に含まれる近代西洋的な意味合い(社会全体で共有された規範であり、物理的ではなく精神的なもの)から離れるため、あるいは日本語の「道徳」が持つこれもまた独自の負荷(たとえば教科としての道徳に代表されるような国家主義・全体主義的な思想)から逃れるためだと考えられる。

 選択の第一層では、自律と平等が善であり、抑圧が悪である。ここでも市民と消費者に求められるものは異なる。

 モルが強調するのは、二つのヴァージョンに共通する道徳の基層が、価値判断を下すことにあるということである。道徳的な逡巡は、身体的・技術的な詳細から切り離されたうえで、決断を下す瞬間にまとめられる。そして、個人が意思に基づいてなんらかの選択を行ったあとに具体的な行為がついてくるという、直線的な時間軸が想定されている。

 ケアの道徳では、気配りと具体性が善であり、放置が悪である。

 そして、善悪の基準は行為のなかに含みこまれており、また行為することによってあらたに善悪の定義が生じていくのだという。

 ケアの道徳には、選択する瞬間のような切り離された領域はなく、善悪を含みこんだ実践を行うことでまた善悪が生まれていくような、継続的・慢性的プロセスがある。こうして、ケアの道徳は、ある人の身体や行為や環境に埋め込まれていながら、身体や行為や環境に応じて変化していく。
 ケアの道徳にとって重要なのは、公と私、ひいては集団と個人の枠組みから逃れることである。

 ケアの道徳を捉えるためには、個人とは異なる人間像が必要とされている。
 選択の道徳は、自律した個人が勝ち取った自由である。

 むしろ現実には、個人と集団は相互に影響を与え合うことで、さまざまな個人化と集団化が生じているし、両者は相互包含的関係にある。

 このように、個人を前提にするのではなく、複数の、重なり合う、またその都度調整されうるさまざまな個と集合性を捉えることで、道徳をイメージしなおすこともできるかもしれない。

 モルは、情報提供を通じた説得のかわりに、人びとが共有している生活環境に手を加えることこそが集団に対する善いケアにつながると指摘している。

『 ケアのロジックー選択は患者のためになるか 』アネマリー・モル/著、田口陽子+浜田明範/訳より抜粋し流用。