mitsuhiro yamagiwa

2024-04-11

関係性は美学?

テーマ:notebook

第一章 関係的な形式

新しさはもはや価値判断基準ではない。

作品は、もはや空想的でユートピア的な現実を構築しようとするのではなく、アーティストがそれぞれの作品において選択する規模において、実在する世界の中で新たな存在様式や行為モデルを構成するのである。

アーティストは動いている世界に途中から乗り込む。

相互主観性を基盤とし、共存することや、観客と図像との〈出会い〉、そして意味の集合的構築を中心的主題とする芸術形式である。

展覧会では、たとえそれが不活性な形式であっても、即時的かつ無媒介的な議論が可能なのだーー我々は他者と同一の時間と空間を知覚し、語り、移動する。アートは固有の社会的行動を生産する場所なのである。

我々にとって芸術作品は、その商品性格や意味論的価値を越え、社会の間隙を表象するものである。カール・マルクスは、利潤法則を免れ、資本主義経済の枠組みから抜け落ちるような原始的な商業共同体ーー物々交換、ダンピング、自給自足などによって維持される共同体ーーを、間隙[interstice]と表現した。

展覧会は自由な空間と非日常的なリズムを刻む時間を作り出し、お仕着せの〈コミュニケーション・ゾーン〉とは別のしかたで個人間の取引を促すのだから。現代の社会は、そうした取引のための場所を作り出すどころか、人間同士の関係の可能性をますます制限しつつある。

あらゆる表象(コンテンポラリー・アートは社会を再現=表象するのではなく、むしろモデル化するのであり、社会から着想を得るのではなく、むしろ社会構造に挿入されるのだが)は、社会的実践へと移調可能な価値を反響させるのである。アートは取引に基づく人間活動であり、倫理の対象であると同時にその主体でもあるのだから。

芸術的な〈もの ショーズ〉は、時間的もしくは空間的に生じる〈出来事〉、あるいは出来事の集合として姿を現す場合があるが、それでもそのまとまり(出来事を形式に、つまり世界にするための)に疑いの余地はない。その枠組みは孤立した対象を越え、状況全体を包含するように拡大した。

形式とは諸要素の出会いを生み出すもの、力動的な凝集の原理なのである。芸術作品は[持続という]線上の点なのだ。

形式は自然や野生状態には存在しない。それは我々のまなざしによって視覚的世界の深みから切り出され、形を与えられるのだから。形式は他の形式から発現する。

たとえ自分自身を客観視しているつもりでも、それは結局のところ他の主体との永続的な取引の結果として辿り着いた思考でしかないのだ。

芸術作品の形式は、我々と共有される認知可能なものとの交渉を通じて生み出されるのである。アーティストは形式を通じて対話する。したがって芸術的実践の本質は、主体間の相互関係を創出することにあると言える。つまりすべての芸術作品は、共に世界に住むための提案である。そしてアーティストの仕事は、異なる関係を無限に生成し続ける、世界との関係の束なのだ。

形式は観客との議論を可能にするために、アーティストの欲望する世界を提示してイメージに意味を与え、〔イメージに向けられる〕観客の欲望は形式によって打ち返されるのである。このやり取り エシャンジュは、誰かが誰かに何かを見せ、見せられた誰かは自分なりの流儀でそれに応答するという二項間の関係として要約することができる。

ふたつの現実の平面が出会うことによってのみ形式は生み出される。なぜなら同質性が生み出すのはイメージではなくヴィジュアル、すなわち〈情報の円環運動〉なのだから。

第二章  一九九〇年代のアート

芸術の世界の内部構造が描き出す〈可能性〉は確かに制限されているが、この構造は、構造内の関係を生産し承認する、外部の秩序〔=社会構造〕の変化に依存するのだから。端的に言えば〈アート〉は多孔性のネットワークなのであり、このネットワークとあらゆる生産の界との関係が、アートの変化を規定するのである。さらに、作品が〈創出する〉外部的な関係の本質を率直に問うことを通じて、美術史を世界との関係の生産史として記述することさえ可能なのだ。

作品は、偶発的な関係の生産装置として、すなわち個人的もしくは集団的な出会いを誘発すると同時に運用する機能しうる。

もはや問題はアートの限界を広げることではなく、社会領域の全体においてアートによる抵抗の力を試すことにある。ユートピア的な社会や革命への期待は、日常のマイクロ・ユートピアと擬態戦略に道を譲った。どのような立場をとるにせよ、〈直接的〉な社会批判は、それが社会的な周縁といういまや幻想に過ぎない立場から行われるならば、無効であり退行的でさえある。

アートは取るに足りない身振りを通じて、辛抱強く関係の布地を縫い合わせる天使の計略、つまり現実の経済システムから離れ、ひそかに実行される一連の行為なのである。

第四章 共存と可用性 ディスポニビリテーーフェリックス・ゴンザレス = トレスの理論的遺産

孤独は〈一〉によって表現されるのではなく、〈ニ〉の不在として示される。

この世代のアーティストの仕事で最も印象的なのは、彼らの作品を導いている民主主義への配慮である。アートは日常的な関心事を超越するものではなく、世界との特異な関係を通じて、すなわちある虚構を通じて、我々を現実に向き合わせるのだから。権威主義的なアートが、現在の不寛容な社会とは異なる現実の可能性ーーそれが夢想的なものであれ、〔現実として〕受け入れられるものであれーーを観客に提示することなどあろうはずがない。

「リテラリズムの芸術〔=ミニマル・アート〕の経験は、状況を含む客体の経験であるーーそれは定義上、実質的に鑑賞者を含んでいるのである」。

ミニマル・アートの空間は、視線とその対象である作品を分離する距離によって生み出される。ゴンザレス = トレスの作品を規定している空間は、ミニマル・アートに類似した形式を通じて、相互主観性のうちに、すなわち作品経験に対する観客の感情的、能動的、歴史的応答のうちに生成される。

作品との出会いが生み出すのは(ミニマル・アートとの出会いによって生み出されるような)、ある空間ではなく、ある持続である。操作する時間、受容の時間、意思決定の時間、それらは、見ることによって作品を〈補完する〉こと以上の意味をもっている。

現代の個人主義に抵抗するための言葉が不足しているのだ。

今日のポスト工業化社会において最も差し迫った要請は、もはや個人の解放ではなく、個人間のコミュニケーションを解放することであり、実存における関係の次元を解放することなのである。

媒介のためのさまざまな手段や移行対象[objects transitionnels]一般に対する、そしてその延長として観客に向けて個人の世界観を伝達する媒体とみなされる芸術作品に対しても、再検討が求められている。今やアーティストとその制作物との関係は、観客からのフィードバック領域を経由するものへと移行しつつある。

作品のアウラは観客の自由な連帯によって再構成されることになったのだ。しかし観客の存在を神話化してはならない。観客を[大衆」という観念に一元化することは、観客たちの一時的な集合的経験をファシストの美学ーーそれは観客たちをそれぞれの同一性に固執させるーーに結びつけてしまうのだ。観客たちを一時的に結びつけるのは、個人を同一性というトーテムの周囲に固着させる社会的しがらみなどではなく、アーティストがあらかじめ設定した契約条件に基づくつながりなのである。コンテンポラリー・アートのアウラは自由な連帯に宿るのだ。

美は答えか?

第五章 関係的なスクリーン

アートは、それぞれの時代の技術によって実現される生産様式、および人間関係を我々に認識させ、また技術を転用することによってそれをより可視化し、技術が日常生活に及ぼす影響について考慮するよう促すのだ。テクノロジーは、イデオロギーの道具としてではなく、その影響が我々の視野に現れる限りにおいてのみ、アーティストの関心を引きつけるのである。

技術的な条件を明らかにしようとするアーティストたちが出会うすべての困難は、ありふれた言い方だが、本質的に変わりやすい一般的な消費財と同じ生産条件のもとで、持続が可能なものを作り出そうとすることに由来する。つまり近代性は〈一過性のものから永遠を引き出すこと〉に挑み続けてきたのだった。それに加えて、そして何よりも重要なのは、同時代の生産様式に照らして一貫性があり、かつ公正な制作方法を考案することなのである。

アートの役割は思考、生活、視覚の諸様式を〔新たに〕作り出すために、技術がふるう権力を反転させることにある。

作品は、それを生み出している身振りや形式の流れから切断されることのない静止画、すなわち凝結した一瞬の持続になる。

第六章 形式のボリティークヘ

ルネサンス期における一点透視図法の発明は、抽象的な観客を具体的存在としての個人に変えた。絵画的装置によって与えられた固有の場所によって、個人は他者から切り離され、独立した存在となった。

現実とは第三者と話し合うことができる何かのことであり、交渉の中で定義されるものである。現実から離れることが〈狂気〉なのだ。

想像力は、話し相手との間で、より多くのやり取りを引き出すために現実に加えられた補綴のようなものなのである。だからアートの目的は、我々の間の機械的なやりとりを減らすことにあるのだと言っていいだろう。アートは被知覚対象に関するア・プリオリな了解の解体を目指しているのである。

支配的なイデオロギーは、アーティストが孤独な存在でいることを望んでいる。

アーティストに関するこうした通俗的なイメージは、まったく関連性のないふたつの観念を混同した結果なのである。つまり、アーティストによる現行の共同体的規範の拒絶と、集団であることそれ自体の拒絶とを区別できていないのだ。あらゆる共同体主義による強制を拒絶しなければならないとするなら、それはまさしく新たに創出される関係のネットワークによって置き換えられるのである。

我々の時代のアーティストたちは対話者を探し求めている。彼らは抽象的な存在としての観客ではなく、より具体的な存在である対話者を制作プロセス自体に取り入れようとしている。作品の意味は、アーティストが提示する諸記号の動的な結合だけでなく、展示空間における観客たちの共同作業員によって生み出されるのである(マルクスの言葉通り、結局のところ現実とは我々の共同作業の一時的な帰結に他ならないのだ)。

我々の時代に欠けているのは政治的プロジェクトではない。

実際のところ状況という概念は、必ずしも他者との共存を含意しない。〈状況の構築〉を私的に利用し、意図的に他者を排除することも可能なのだ。〈状況〉は、時間と場所と行為の統一体を、観客の存在を必要としない劇場へ追いやるのである。一方で芸術的実践は常に他者との関係を含むものであると同時に、世界との関係を作り上げるものである。状況の構築は、交換形態から練り上げられる関係的な世界に、必ずしも対応するものではないのだ。

主体性ほど自然状態から遠いものはない。それは作られ、加工され、入念に仕上げられるのだ。

美学へのガタリの貢献は、主体性を脱自然化・脱領土化し、神聖にして不可侵の主体という保護された領域から引きずり出し、機械状アレンジメントや、形成過程にある実存的領域が増殖している不穏な岸辺に接岸させる、彼の労苦において明らかに示されている。

主体性は不穏である。人文科学を厳密な篩いにかけた現象学的手法に反し、人間でないものが〔主体性の〕不可欠な部分を構成するのだから。主体性は増殖する。その時にこそ、資本主義のシステム全体が、主体性の観点から解読できるようになるのだから。主体性が支配的である場所では、それはますますシステムの網に強制的に絡め取られるようになり、資本主義の目先の利益のために囚われの身となるのである。「社会にかかわるさまざまな機械が公共設備という名の大項目に分類されうるのと同様、情報通信技術を結集した機械もまた人間的主体性の核心部分に作用」するのだから。したがって我々は、主体性を「獲得し、強化し、再発見する」ことを学ばなければならない。さもなければ主体性は柔軟さを失い、もっぱら権力に奉仕する設備の集合に作り変えられてしまうだろう。

主体性は異なる領土との出会いを通じてのみ、自らの〈領土〉を構成することができるーー主体性の発生的形成、主体性は差異に基づいて、すなわち他性の原理によって自らを構成するのである。

ガタリによれば、主体性は自律的に存在するのではなく、いかなる場合においても主体の実存の基礎となることはない。主体性は組み合わされた仕方でのみ存在するーー「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合。そこには閃光のごとき決定的直観がある。

主体性は、不和の、逸脱の、距離を取る操作の成果であり、環境問題を生産関係の総体から切り離して議論することができないのとちょうど同じように、その生産の過程を社会関係の総体から切り離すことは出来ないのである。

〈主体化の構成要素〉が統一されて見えるのは、ただ皆が共有する幻想ーーそれを守っているのが商品価値を保証する署名とスタイルであるーーの効果に過ぎないのだ。

複数の特異性の宇宙や希少な生き方を連結し、社会的存在へ移行する前に自己自身において差異を培養すること、これこそ精神のエゴゾフィーの第一原理なのである。主体性のエコロジーが根本的に変わらなければ、そして主体性が相互依存性に基礎付けられていることを自覚しなければ、主体の再特異化など不可能なのである。

神経症は触れるものすべてを〈固体化する〉のである。実存の領土を商業化し、主体のエネルギーの流れを収益に変える統合された資本主義は、神経症的に機能する。それは、砂漠化した直接交換の領域に残された空き地に殺到し、〈主体性に巨大な空虚〉を、すなわち「機械化の孤独」を発生させるのだ。この空虚は、人間でないもの、機械、との新たな契約を結ぶことによってしか埋めることはできない。

資本主義の体制によって個人に加えられる同質化という名の暴力、それがもたらす悲惨な結果を〈治癒する〉ためには、主体化の素材が現れなければならない。同質化とは、個人の主体性の基礎をなす相違を抑圧することなのだ。いずれにせよ、アートと精神生活は同じアレンジメントの中で、折り重なるように共存している。ガタリは、心的メカニズムをより物質的に表現するために、アートについて非物質的な表現を用いて記述しているに過ぎない。芸術的行為と同様に、分析においても、「時間はただ与えられるものであることをやめる。それはこちらから能動的に動かし、方向付けることができる、質的変化の対象」なのだ。分析家の役割が「主体化を生じさせる変異性の焦点を創造すること」にあるのなら、アーティストに対しても同じ公式を容易に当てはめることができるだろう。

作品は「主体性を分岐させるオペレーター」なのだ。

芸術作品は視線を拘束するのではなく、自らの周囲に主体性のさまざまな構成要素を結晶化させ、新たな消失点へ向けて再分配するという、審美的まなざしが引き金となる、幻惑と催眠のプロセスを生じさせるのである。作品は、完成作や自閉的な全体性を対象とする古典的な受容美学によって定義されたような留め金とは、まるで正反対の存在なのだ。

エコゾフィーは「社会的なもの、私的なもの、市民的なものを恣意的にセクター化していた古びたイデオロギーに取って代わ」ることができるのかもしれない。こうした観点に立てば、アートは高度に組織されると同時に高い〈浸透性〉を有する〈内在平面〉を供給する限りにおいて、依然として主体化のための貴重な補助手段であることが明らかになる。

三つの作用領域ーー学問、虚構、行動ーー〔ヘの隷属〕は人間存在をあらかじめ確立された機能別のカテゴリーに分類し、ばらばらにしてしまうのである。

事物よりも形相を、カテゴリーよりも流れをーー物質的素材による事物の生産よりも身振りの生産が優先される。今日の観客は、自らの参照世界に閉じこもる内在的対象を鑑賞するのではなく、〈触媒的時間のモジュール〉の臨界を乗り越えるよう導かれる。

語彙解説

作品は機能モデルであって縮尺模型ではない。言わば、スクリーンの大きさに応じて投影される画面の大きさが変化するデジタル・イメージと同様に、物理的な広がりについては考慮に入れられていないのである。スクリーンは額縁とは異なり、あらかじめ決められたサイズに作品を閉じ込めることなく、未知の広がりにおいて作品の潜在性を物質化するのである。

原註

〔作品にとって〕偶然は重要だが、それは制作時に限られる。ひとたび展示されれば作品は事実性の世界を離れ、すべては解釈に属することになる。

訳註

ニーチェ自身によるまとまった記述はないが、関係性の美学との関連において要約すると、現存する世界とは別に理想の世界があるということを否定し、現に生きられた生の持続を(永遠回帰として)、完成にではなく、生成のうちに肯定する思想、ということになるだろう。

訳者あとがき

主体性は、個人によって独占的に構成され、その中心に占有されるものではなく、他の主体性や様々な対象(機械や設備などと表現されるもの)との流動的な関係によって、つまり「人間集団、社会=経済的機械、情報機械」の連合として編成されるものだとされる。だからこそ我々は、支配的・統合的なシステム(資本主義が名指されている)に囚われてしまわないよう、主体性を創造的に「獲得し、強化し、再発明する」方法を学ばなければならないということになる。

諸個人の行動が相互に、あるいはなんらかの素材と関係することによって美的対象としての形式が生み出されるというブリオーの理論は、「主体」と「客体」はそれぞれ自体として自律的に存在するのではなく、相互に関係することを通じて互いを動的に編成するものであるという思考に基づいている。主体と客体の動的編成、あるいは人間と対象(もの)の間の移行のイメージは、「関係性の美学」の後にもブリオーの主要な関心であり続けているようだ。

『関係性の美学』ニコラ・ブリオー/著、辻憲行/訳より引用、抜粋。