mitsuhiro yamagiwa

2023-11-19

認識の構造

テーマ:notebook

第十章 集団的個性

 複雑さに直面して、人々は複雑なもののなかにある内的な、根本的な原理を得ようとする。なぜならば、社会的な事実を個性の象徴に変えることは、偶然性と必然性の複雑なニュアンスがいったん場面から取り去られたときにだけ成功できるからである。

 十九世紀に個性が公的領域へ入り込んだことがこの親密な社会を準備した。それは社会でのやりとりは個性の開示であると人々に信じさせることによってなされた。またそれは個性の中身がけっして明確な形をとらないように個性の理解に枠をはめ、そこで他の人々、また自分自身が「本当は」どのようなものなのかについての手がかりを人々が馮かれたように果てしなく求めるようにさせることでなされた。

 ナルシシズムとは、自己が満たされることの追求であると同時に、その満足が起こるのを妨げるものであることが思い出されよう。この精神の状態を文化的な状況によって生みだされるのではなく、あらゆる人間がもつ性格の一つの可能性なのである。

 ナルシシズムは、心理機構の基本的部分が一時的に停止された状態になることに依存している。

 私はしばしば自我機能の最上の定義は次のことから引き出せるかもしれないと考えてきたーーそれを欲するよりも獲得する仕方を学ぶことである、と。 集団的個性のコミュニティが形づくられはじめたこの一〇〇年の間にわかってきたことは、共同のイメージは共同の行動を抑止するものになるということである。ちょうど個性そのものが反社会的な観念になったように、集団的個性は集団的行為とはそぐわね、集団的行為に移し難い社会のなかの集団的アイデンティティになる。

一八四八年ーー個性が階級を打ち負かす

 個性の力とは、ある瞬間の公の外見が過去の重荷、昔うけた傷の記憶、一生の確信をいきなり拡散させることができる力である。

 色彩も、情熱も、大言壮語もなくなって、いまに残ったものは認識の構造であるーー信じられる公的な出来事は、信じられる行動よりも、信じられる公的な人間によって創られるのである。政治と芸術の出会いのもつ真正な美的性質は消えてしまい、あとに残るのは「個性の政治」の蒙昧主義的な麻痺させる効果でしかない。

ゲマインシャフト

 解読とは、振る舞いの細部を性格の状態全体の象徴と取ることである。

 人は彼の意味するものを彼の外見によって解読したのである。

 イデオロギーがこうした振る舞いの細部を通して信じられるものかそうでないかを測られるようになるにつれて、政治闘争そのものがますます個人的になる。政治のことばは小粒になり、ちょっとした瞬間や出来事がとてつもなく重要になる。なせなら、こうした細部を通して誰が闘っているか、したがってどちらの側に自分は属しているのかを学んでいるところだからである。

 このようにして形成された政治的コミュニティは一つのゲマインシャフトである。人々はどこに所属すべきかを知るために他の人々が自己を露にすることを求め、この自己を露にする行為は、信じられなければならないものよりも、むしろ誰が何を信じているかを象徴するこうした細部からなりたっている。

 集団的人格についての空想は壮大なものになりがちである。なぜなら、自分のことと違って他人についての実際の知識はほとんどなく、ただわずかな数の象徴的な細部だけがあるからである。同じ理由で、集団的人格は抽象的な特徴をもっている。この集団的人物は、一つにはその抽象性のために、一つには知覚する個性の側の様式そのものが知覚された個性を不安定にするために、すぐにもぼやけてしまう。

 このようにしてゲマインシャフトの基礎は敷かれたーー共有された行動としてよりも、むしろ存在の状態としての他の人々との感情的関係。社会のなかのコミュニティはニュートラルギアだけで運転されるエンジンに近いものになった。

 共通の立場や共通の信念は共通の自己と混同されるようにもなった。

 したがって人々は地理には関わりなく、ある特別の場所から出た人々の目をもって見るようになるのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳