mitsuhiro yamagiwa

2023-12-14

自分との距離

テーマ:notebook

遊びは公的な表現のエネルギーである

 遊びについての膨大な文献は二つの学派に分かれる傾向がある。一つは遊びを認知活動の一形態として扱うもので、子供たちがどのようにして遊びを通じてシンボルを形成するか、また遊ぶ子供たちが歳をとるにつれて、これらのシンボルがどのようにしてより複雑になってゆくかを調べる。もう一つの学派は遊びを行動として扱い、シンボル形成にはさほど関心をよせず、一緒に遊ぶことを通じて子供たちがいかにして協調を学び、攻撃性を表し、欲求不満に耐えるかに焦点を合わせている。

 創造的な作家は遊んでいる子供と同じようなことをしている。彼は空想の世界を創るが、それをきわめて真剣におこなうのだ、つまり、多大な感情をそこに注ぐ、そして一方でそれを現実と明確に分けているのである

 ……

 この断定はフロイトを次の結論へと導くーー

 遊びの反対は真面目なものではなく、現実であるものである。

 「現実に対して活動するのではなく、現実のなかで活動する」

 遊びと創造性はやはり交換できるもののように語られている。

 問題は、芸術家は少なくとも「創造的である」つもりではないことだ。彼らは特定の媒体で特定の作業をしているのである。

 結果の質に違いがあることを忘れないためには、遊びの活動が創造的活動の準備をしているのを見る必要がある。

 アーネスト・クリスの適切な表現によれば、遊びの特定の行為と特定の芸術的行動の関係は「同一性」というよりむしろ「祖先」の問題なのである。

 ーーとりわけ、自分たちの遊びのルールの質に手を加えるのに自分との距離がいかに助けになるかの学習である。

 遊びでは幼児は彼なり彼女なりの保持したいという欲求との間に距離をおく。この意味で、その赤ん坊は自分との距離のある活動に従事している。

 子供たちが好むのはルールをもっといっそう複雑にする試みなのである。もしゲームが目的のための手段であるならば、子供たちの態度は意味をなさないことになろう。獲得することが子供たちが遊ぶ理由ではあるが、遊びそのものではない。子供たちが好むゲームの複雑化は、むしろ獲得する目的の達成をできるかぎり遅らせるのである。

 遊びは「隔離された」ものであるとのホイジンハの定義が思いおこされる。

 しかしながら、遊びのなかの一定の行為は、すべての勝つのを遅らせる、終わるのを遅らせるためにある。子供たちに手間取らせ、遊びの状態にとどまっていられるようにしているのがルールなのである。

 こうして、たとえ支配することがゲームをする理由であるにしても、たとえ支配することが始めから終わりまで強く望まれているにしても、他の者たちを支配する子供の喜びは、子供のゲームのしきたりによって遠ざけられるのである。

 第二に、ルールが自分との距離をもった行為となるのは競技者間の技術の不平等の調節に関係している。

 大きい子供たちは自分たちに「ハンデ」を創りだして、競技者が平等になるようにし、そうしてゲームを長引かせる。またまたルールは子供たちを直接的な自己主張、即時の支配から引き離す。自分との距離はここでもまた遊びに構造を与えているのである。

 遊ぶことは自己からの自由を要するが、この自由は競技者間に当初の力が平等であるというフィクションを確立するルールによって創りだされるのである。

 つまり他の子供たちへの自分の支配を遅らせると同時に、共通の力をもった架空のコミュニティを創りだすパターンを作り上げることで、自分との距離にいたるのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳