mitsuhiro yamagiwa

2023-12-07

群衆とコミュニティ

テーマ:notebook

コミュニティのまわりにつくられたバリケード

 集団相互の親善の経験がおもわくとして考えられていたとしても、排除と侵略が実際の経験となるに違いない。

 つまり、群衆は人間のもっとも打算的な感情がもっとも自然に表現された形態であり、群衆とは革ひもから解き放たれた動物としての人間である、とするものである。

 群衆は悪しき階級の自己表現の媒体であるばかりでなく、悪しき自発性の原因として見られているのである。

 群衆はその構成員の内発的な暴力を解き放つが、それは他の人々との普通のつきあいでは彼らの誰も示そうとしないものなのだ。

 暗黙に肯定されていることは、ごく少数の個人の間の触れ合いをもった、簡素で、はっきりと境界を区切られた空間のみが秩序を保つ、ということである。

 現代の群衆のイメージは現代のコミュニティの思想に影響している。

 コミュニティは監視機能をもつ。

 まさしくこの矛盾から生まれたのが現代のコミュニティ生活で最後まで演じられる特殊な役割、人々がお互いに感情面で開放的でありながら、同時にお互いをコントロールしようとする役割である。

 コミュニティは社会からの感情面での撤退であり、また都市内部での領分を区切るバリケードの建設でもあることになった。

内部から築かれたバリケード

 道徳的な姿勢、非妥協的な態度の仮面、その他は、コミュニティが世間でどれくらい目的を達成したかに合うように調整される。しかしながら、現代のコミュニティの役割に特別なことは、権力への手段にすぎないと思われる仮面が、目的そのものになってしまうことである。理由は、現代社会を支配するようになった個性の在り方そのものによって、人々は外見が絶対的な現実であると信じる気になっているためである。一群の人々が政治目的のために一つに集まって、自分たちの共通の態度を創りだし、そこでその共通の外見にもとづいて行動しはじめると、彼らは次第にその態度そのものを信じこみ、それにしがみつき、それを守りはじめる。

 ますます多くの人々がこの怒りを表すことをお互いの一種の霊的な交わりと考えることに慣れていった。怒りをわかちあうことがコミュニティの内で語る方法となり、この感情をわかちあおうとしない者はみな怪しまれた。

 一九六〇年代の黒人のコミュニティの運動は、中産階級への挑戦であったが、戦術や長期的な計画についての論争で異なる党派のそれぞれが次第に自分たちが唯一の正統的な「人民」の声だとみなすようになるにつれ、同様の壁を築いて終わった。よそ者は、白人同様に他の黒人も、遠ざけるべき者となったのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳