mitsuhiro yamagiwa

2024-02-07

流れの反転

テーマ:notebook

イントロダクションーー芸術の流体力学

 アヴァンギャルドによる美術館の制度に対する論争は、近代の政治と同じく、平等主義と民主主義への衝動によって動かされていた。それは人間の平等と同じく、もの、空間、さらにより重要な平等を主張した。

 民主化された美術館はあらゆるものを含むことはできない。

 しかし、美術館の特権を諦めることは、芸術作品を含む全てのものを時間の流れ(フロー)に晒すことを意味する。

 もし芸術作品の運命があらゆる他の日用品の運命と変わらないとするならば、われわれはそれでもまだ芸術について語ることができるのか?

 むしろ、美術そのものが流動的になったということを言っているのだ。

 私がこの本で試みることは芸術の流体力学、流れるものとしての芸術を論じることである。 

 近代および現代における流動体としての芸術という理解は、時間の流れに耐えるという芸術の元々の目的と矛盾するように思われる。実際に芸術は初期近代の文脈においては、失われてしまった永遠の観念と神の精神への信仰の、世俗的で物質主義的な代替物として機能していた。

 美術館は存在論的にではなく、むしろ政治・経済的に保障された物質主義者の永遠性を約束する。二〇世紀にはこの約束が問題になった。

 美術館の数は世界中に増えつつある。むしろそれは美術館そのものが時間の流れの中に沈められたことを意味する。美術館はパーマネント・コレクションのための場であることをやめ、移り変わるキュレーションされたプロジェクト、ガイドツアー、上映、講演、パフォーマンス等の舞台となった。現代では、ある展示から別の展示へと、あるコレクションから別のコレクションへと美術作品は永遠に循環する。そしてこれは美術館が時間の流れの中へといっそう巻き込まれつつあることを意味している。同じイメージの美的な鑑賞の文脈へと立ち戻ることは、同じ対象に立ち戻ることを意味するのみならず、同じ鑑賞の文脈へと立ち戻ることをも意味する。

 現代美術館はこのようにして鑑賞と内省の場であることをやめたのである。

 たしかに、現代美術館は時間の流れに抵抗するのではなく、時間の流れと協働することによって現在から脱れる。

 未来主義とダダの芸術家たちは、現在の堕落と退化を暴き出す芸術イベントを生み出した。

 伝統的な美術は芸術作品を生み出した。現代美術は芸術イベントに関する情報を生み出す。

 それによって現代美術がインターネットと共存することが可能になる。

 美術館における作品はその(見えない)オリジナリティ(空間と時間の中での物の最初の位置付けとして理解されるオリジナリティ)のアウラを差し引いた物である。反対に、デジタルによるアーカイビングは物を無視し、アウラを保存する。物そのものは不在である。残っているものはそのメタデーターー物質的な流れの中にもともと書き込まれていたものの「いま、ここ」についての情報、つまり写真、ヴィデオ、文章による証拠ーーである。

 一方でわれわれにはテキストとイメージがあり、もう一方で伝説と噂話がある。

 今日ではそれらの関係は変化してしまった。インターネットに匹敵する図書館や美術館はなく、インターネットはまさに伝説や噂を増植させる場所なのだ。

 情報はインターネットを通して「流れる」としばしば言われる。

 物質の流れは戻らない。時間は後ろ向きには流れない。ものの流れに浸っていると、かつての瞬間に戻り、過去の出来事を経験することはできない。

 けれどもインターネットはまさに回帰の可能性の上に構築されている。あらゆるインターネット上の操作はたどることができ、情報を修復し再生産することができる。

 インターネットが存在し機能している限り、かつて非デジタルのアーカイヴと美術館によってわれわれが同一の物に回帰することが可能だったように、それはわれわれが同じ情報に回帰することを可能にするだろう。つまりインターネットは流れではなく流れの反転なのである。

 芸術は未来を予言しない。むしろ現在の移り変わる性質を示し、そのようにして新しいものへの道を開く。流れの中の芸術はその独自の伝統を発生させ、新たな存在、未来の先取りや実現としてアート・イベントを再上演する。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳