mitsuhiro yamagiwa

第8章 グローバル・コンセプチュアリズム

 コンセプチュアリズム以後、もはやわれわれは芸術を、レディメイドの事物でさえ、まず個別の事物の展示や制作とみなすことはできなくなった。

 コンセプチュアル・アーティストは個別のものから空間と時間におけるそれらの関係へと注意を移行させた。これらの関係性は純粋に空間的、時間的なものであるが、また論理的なものにも政治的なものにもなりうる。それらは事物、テキスト、写真による記録の間の関係性になりうるが、またパフォーマンス、ハプニング、フイルムやヴィデオといった、同じインスタレーション空間の内部で展示すれる全てのものを含む。いいかえれば、コンセプチュアル・アートは基本的にはインスタレーション・アートとして特徴づけられ、個別の無関係なものを提示する展示空間から、それらのものの関係が第一に展示される、空間を包括的に理解することに基づいたものへの移行として特徴付けられる。

 個々の名詞や動詞が文によって組織されるのと同じ方法で、ものと出来事はインスタレーション空間によって組織されるということができる。

 いまやコンセプチュアル・アートの画期的な功績は明らかである。それは言葉とイメージ、言葉の秩序と事物の秩序、言語の文法と視覚的空間の文法が等価であること、もしくは少なくとも並行関係にあることを示したのである。

 コンセプチュアル・アートは、美学と反美学の伝統的な二分法、感覚的な快と感覚的なショックを超えた実践を確立した。

 この形式化は、適切で説得力ある言語学的もしくは視覚的表象を、理念が見出すのを手助けすることをまさに意味する。

 コンセプチュアル・アートは形式の問題に興味を持つが、詩や修辞の観点からであって、伝統的な美学の観点からではない。

 美学的態度とは基本的に鑑賞者の態度である。

 鑑賞者はいわゆる美的な経験を芸術に期待する。美的な経験は、美もしくは崇高の経験であるということをわれわれはカントから知っている。それは感覚的な快の経験となる。しかしそれはまた、「肯定的」な美学てあれば備わっていることが期待されるあらゆる質を欠いた芸術作品によって引き起こされるフラストレーションや、不快さの「反美学的」な経験にもなりうる。

もしくは美は何らかの違った方法で美を作るための、鑑賞者の視野を再形成する感覚可能なものの再配分となる。

 いいかえれば、美学に関する態度は芸術政策が芸術消費に従属していることを前提としており、同様に、芸術の理論と実践が社会学的な観点に従属していることを前提としている。

 今日では、芸術家は公衆の利益というトピックを扱うことを要求される。

 芸術の政治化はしばしば、芸術に単に美しくあることを要求するような純粋な美的態度に対する解毒剤とみなされる。

 実際には美学的な態度は芸術を必要とせず、芸術がなければはるかにうまく機能する。

 現実の世界は、科学的な態度や倫理的な態度と同じように、美学的な態度の正当な対象であり、芸術の正当な対象ではない。

 美学的な観点から見ると、芸術は何か克服されなければならず、克服できるものとして現れる。全てのものは美学的な観点から見ることができる。

 むしろ芸術は美的態度の所有者と世界の間に位置する何かである。

 美学的な言説は、もし芸術を正当化するために用いられるならば、事実上それを弱める。

 芸術家は視覚や他の感覚の学校だった。芸術家と鑑賞者の区別ははっきりとしていて、社会的に堅固に確立されたものだった。

 しかしニ〇世紀の初頭から、この単純な二分法は壊れ始める。

 今日コンセプチュアル・アートは、インスタレーションを通して大衆文化の実践となった。

 しかし、世界中の何十万もの人々を含む、インターネット上でのセルフ・プレゼンテーションを芸術実践として特徴づけるのは正しいのだろうか?

 コンセプチュアル・アートはまた、永遠に「何が芸術なのか?」という問いを投げかける芸術として特徴づけることがてきる。

 われわれは何を芸術として同定するつもりなのか。そしてそれはどのような条件のもとでなのか。どのような種類のものをわれわれは芸術作品として認識し、どのような種類の空間を芸術空間と認識するのか?

 積極的に芸術に参加するようになることは何を意味するのか?いいかえれば、芸術家になるとは何を意味するのか?

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳