mitsuhiro yamagiwa

2023-11-25

心理の形態

テーマ:notebook

第四部 親密な社会

第十一章 公的文化の終焉

 今日支配的な信念は、人と人との親密な道徳的善であるということである。

 ーーすなわち、あらゆる種類の社会関係は、それが個々の人間の内的な心理的関心に近づけは近づくほど真実で、信頼でき、真正なものである、と。このイデオロギーは政治的カテゴリーを心理学的カテゴリーに変質させる。

 公的文化の盛衰の歴史は少なくともこの人道主義的精神を疑問とするものだ。

 道徳的善としての人と人との親密さへの信念は、実際は前世紀に資本主義と世俗的信念が生みだした大きな混乱の産物である。この混乱のために、人々は非個人的な状況に、事物に、社会そのものの客観的状態に、個人的な意味を見出そうとした。

 世界が心理の形態をとるにつれて、世界は不可解になった。それゆえに人々は逃れて、生活の私的領域、とりわけ家族のなかに、個性の理解にさいしてのある秩序の原理を見ようとした。かくして人と人との親密さへの明らかな願望には安定への隠れた願望が過去によって作りつけられた。

 関係がこうした負担に耐えきれなくなったとき、われわれは無言で込められた期待よりも、むしろその関係に間違いがあるという結論を下す。そこで他人との親密さの感情に達するのは、しばしば他人を試したり後のことであり、関係は親しい(close)と同時に閉ざされている(closed)。

 安定の期待を負った親密さは感情のコミュニケーションーー元来困難なものであるがーーをさらにいっそう困難にする。

 攻撃性は人間社会の営みにおいて必要なものかもしれないが、われわれはそれを嫌悪すべき個人的特徴と考えるようになっている。

 人々が信頼し、開放的になり、分かちあい、他人を操作することを避け、社会状況への攻撃的な挑戦やこうしたことを学ぶ程度に応じて、人の個性は「発展」し、人は感情面で「より豊か」になるのだという格言をひとに提案することは本当に人道的なことなのであろうか?

 今日では人間の意志という意識は弱い。

 最後に、公的生活の歴史は、社会悪としての非個人性のまわりにつくられた神話に疑問を投げかける。

 非個人性は人間喪失、人間的関係のまったくの不在の風景を明らからにしているように思える。が、この非個人性を空虚そのものと同一視すること自体が損失を創りだす。空虚さへの不安に反応して、人々は政治的なものを個性が力強くて宣言される領域とみなす。

共通の集団的個性を分かちあうことによってお互いに自己を明かし合う機会とみなすようになればなるほど、ますます人々は自分たちの兄弟愛を社会状況を変えることに使うことから逸らされるのである。コミュニティの維持そのものが目的になる。真に属していない人々を追放することがコミュニティの仕事になる。交渉を拒否し、よそ者を追放する論理的根拠は、社会関係のなかの非個人性を取り除こうとする人道主義的な願いと考えられたものの結果である。また同じ程度に、この非個人性の神話は自己破壊的である。共通の利益の追求が共通のアイデンティティの追求のなかで破壊されるのである。

公的生活の欠如のなかで、こうした人道的と思われている理想が支配する。

 例えば、人々にとって、芸術家であれ政治家であれ公の場で自分の感情を能動的に示せる人たちを特別な優れた個性をもつ人とみなすことが、筋の通ったことになった。これらの人物が彼らが前にする観衆と相互に作用しあうというよりは観衆を支配するものだった。

 観衆は証人というよりは見物人になった。観衆はこうして能動的な力としての、すなわち「公」としての自己意識をなくした。

 公の場における個性は、不本意に他人に対して自分の感情を明かしてしまうことを人々に恐れさせることによって、公的なものを滅ぼした。結果はますます他人との接触から身を引こう、沈黙によって身を守ろうとするようになり、さらには感情が表れないように感じることを止めようとさえした。このようにして、表現のあり方が仮面の提示から、世間で自分が被っている仮面のなかの自分の個性、自分の顔の暴露へと移るにつれて、世間からは公の場で表現豊かでありたいとする人々がいなくなったのである。

 完全な伝達性を信じるわれわれの信念とマスメディアの恐怖を関係づけることをわれわれはしない。なぜなら、かつて公的文化を形成した基本的な真実をわれわれは否定するからである。能動的な表現は人間的な努力を必要とし、この努力は人々がお互いに表現しあうことを制限する程度にのみ成功するというのに。

 しかし否定することは消し去ることとはちがう。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳