mitsuhiro yamagiwa

2023-07-26

唯一のたぐいの私たち

テーマ:notebook

 文化が「複合的全体」であるなら、それゆえに文化はある「開かれた全体」でもあるというわけである。

 人間的なるものを超えた人類学の多くは、いかに人間的なるものが人間的な文脈のかなたにあるものから産出されるのかを見定めることの習得にかかっている。

「開かれた全体」が目指すのは、生命に特有で、また、ある意味で生命と同義のものとして表象の過程を認めることである。その上で世界の中に存在するためのとりわけ人間的なあり方を、より広く、ある記号論的な領域から創発し、それと連続するものとして、位置づけるようになることを示すことである。

 象徴的なるものが「開かれている」のなら、それは正確にはいったい何に対して開かれているのだろうか。象徴的なるものを超えた諸々の記号をこのように探求し象徴的なるものを開くことによって、「実在するもの」という言い方でもって何が言われることになるのかを、私たちをよく考えてみなければならなくなるだろう。人類学の中でこれまで安定していた実在するものの基盤ーー「客観的なるもの」と文脈によって構成されるものーーが、人間的なるものを超えた世界の中で生まれ、成長し、循環する諸記号の奇妙な隠れた論理によって不安定になることを、考慮に入れる必要があるからである。

 全ての生命は記号論的であり、また全ての記号過程は生きている。それゆえ、重要な仕方において、生命と思考はまったく同一なのである。つまり、生命は思考し、思考は生きている。

 このことは、「私たち」が誰なのかということの理解に関わる。「生ある思考」があるところにはまた「自己」がある。「自己」とは、もっとも基礎的なレベルにおいて、記号論理から生じるものである。

 記号は、記号過程の結果「自己」として出現する「誰か」に対して、周囲の世界を表象するようになる。このように、世界は「活力に満ちている」。「私たち」は、唯一のたぐいの〈私たち〉ではないのである。

 意味=すること(すなわち、手段=目的関係、意義、「関係性」、究極目的)は世界の構成的な特徴であって、私たち人間が世界に押しつける何かでないのも、この生ある記号論的な動態のゆえのことである。

 つまり、諸自己とは何であるのか、そして、私が「諸自己の生態学」と名づけた、あの諸関係の複合的な編みの目の中で、熱帯雨林を居場所とするほかの諸存在とある自己とが相互作用することで、諸自己はいかに出現し、消失し、さらには新たなたぐいである〈私たち〉へと合流するのかを理解することが問題になる。

 ルナは、狩猟するために森の諸自己の生態学に踏み入るのだが、狩猟が意味するのは、他者を自己でないものに変えるために、他者も自分たちと同じように自己であると認めることである。

 ある者が非常に多くのほかの諸自己との関係において自己の立場にあり、さらにほかの諸自己を殺さなくてはならないこの広大な諸自己の生態学にあって、狩猟をすることはそのむずかしさを前景化する。つまり、全宇宙は、生命に本来備わる矛盾と響きあうのである。

 種類も規模も実に多数の死がある。私たちが自分自身やお互いに対して自己であることが途絶えてしまう、多くの道筋がある。

 関係から押し出される多くの道筋があり、関係が見えなくなり関係を殺しさえする数多くの機会がある。要するに、魅惑するものを失わせる、数多くの様態がある。ときとして、私たちが存在しているというこのありふれた事実にまつわる恐怖が私たちの生に雪崩れ込み、現実のむずかしさとなる場合もある。またそのことは、単に無視される場合もある。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳