mitsuhiro yamagiwa

2023-12-03

個性の知覚

テーマ:notebook

エレクトロニクスが過去の沈黙を固める

 エレクトロニクスによるコミュニケーションは公的生活の観念そのものを終わらせることになった手段の一つである。メディアは社会集団がお互いについてもつ知識の蓄積をおおいに増加させたが、実際の接触を不必要なものにした。

 これらの機械は、社会的相互作用と個人の経験の間の闘いの兵器庫の一部なのである。

 テレビのジャーナリズムは「強迫観念にとらわれたように」個人にこだわり、いつも政治家の私生活を興味の中心にしていると言われるとき、その言い分は強迫の真の性質が認められている限りにおいてのみ正しい。強迫とは一つの拒絶であって、それは次に同じように拒絶されていない人物ないし個性に対して拡大された関心を生みだす。電子メディアによる聴衆の反応の完全な抑圧は個性に対する関心の論理を作りだすのである。

 知覚する者に何の要求もできないメディアにあっては、個性を知覚することが平等の論理となるのである。

 電子メディアによって喚起される個性への強迫的な関心と、成功したルサンチマンの政治家にとっての人々の注意を逸らす必要とは、きれいに一致する。

スターシステム

 「スターシステム」は有名であることと無名であることの隔たりを最大にすることによって生じる利益に関係しているが、その隔りは大きく、人々は誰か有名な人間を見ることができなければ生のパフォーマンスを見たい気持ちをまったく失ってしまうほどになっている。

 音楽は総譜から読み取るというよりも、一つの経験、ほとんど衝撃というべきものになったのである。これは音楽を内在的な現象とする思想である。

 カリスマは無気力の行為であるーー世俗的文化のなかで「神の恩寵」がこれと化すのでるある。

 カリスマはスターである。こぎれいに包装されて、人々の前に十分に露出されることなく、そこで自分の感じることにきわめて率直に、解決できない危機にいたるまでは何もたいして変わらない領域をカリスマは支配しているのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳